SAVE: 13 僕らのデー

─Dec.23rd─


「課長、課長」
統括部長が去って二人になるや京は軽やかな足取りで金熊との距離を詰めた。自身から森林の香りがする。森林の香りというのが具体的に何かというのは不明だが、先刻の消臭スプレーにそう記されてあったのだから、自分たちから今まちがいなく「森林の香り」なるものがするはずである。同じく「森林の香り」を身に纏っているはずの金熊はハイパー不機嫌だ。
「何がトンコツ課長だ、うまいこと言ったみたいな顔しやがって」
「実際うまいじゃないですか。あの人いいっすね、本社の役員に除菌スプレーしてくれる人なんてそうそういないでしょ」
「暇なんだろうよ、うちの生活課と違って」
金熊が珍しく露骨に悪態をつく。対照的に京は、足取りも軽やか。緊張という言葉とは無縁そうである。そんな二人のご機嫌は、宇崎をはじめとする管理職群団に遭遇した途端まるっきり逆転した。ここぞとばかりに愛想よく振舞う金熊と、人見知りの幼児のように金熊の後ろに避難する京。双方のわざとらしい態度にも、宇崎は眉の神経ひとつ動かさずいつもの鉄仮面を保ったままだ。
「金熊課長、概要は聞いたか」
「ええまあ……浦島に直接話がしたいとかなんとか」
「我々は傍聴室で待機する。立ち合いは君がして、浦島に妙な言動があれば即刻中断しろ。……できるな」
「勿論です、おまかせください」
金熊の愛想笑いが若干引きつった。管理職群団がきびきびとした足取りで去っていくや否や高速で振り向いて、京を半眼で見やる。
「京介。確認だが……お前、大神と何を話すつもりでいる?」
「何、ですか。いや何って言われても、向こうが俺に話があるんでしょ?」
「お前にも質問の一つや二つあるだろ。言え、事前に」
「俺は──」


 京は適当にノックをして、返事も待たずそのドアを開けた。入り口から数メートル離れたところに何の変哲もないパイプ椅子が用意されている。向かい合わせに、大神良治が座っていた。傍らに監視員が一人、大神本人はちゃちな拘束具で両腕の自由を奪われているようだが、それ以外は通常のブレイクスプラウトと同じ扱いのようだった。
 京がまじまじと凝視してしまったのは、彼愛用のロイドサングラスがないせいでプリズムアイが露出しているせいだ。
「よう、浦島君。悪いな、わざわざ呼び出してしまって」
 第一声は大神からだった。京は特に返事もせず、大神を見たままパイプ椅子に腰かける。
「……何で俺を指定?」
「俺の勝手な都合だ。俺の場合取り調べで黙秘なんかすると、どうも酷い目に合うらしい。どうせおしゃべりするならスタンダードよりスプラウト、赤の他人より顔なじみの方がいい」
 京は誰にも気づかれないように奥歯を噛んだ。マジックミラーの向こう側、傍聴室で腕組みしながら監視するお偉方やドアの横で気を付けの姿勢のまま動かない金熊、そして眼前にいる大神良治にも。
「それと、“ブレイク”について君の意見が聞きたくなった。興味がありそうな顔をしていただろ」
「アイ細胞の、アップグレードとかなんとか……」
「そうそうよく覚えてるな。心配しなくても、お隣で聞いていらっしゃる偉い人たちにもこのことは既に話してある。共感していただけなかったがね」
大神は、自由にならない両腕を少し上げて、肩を竦めるようなポーズをとってみせた。京は見えないところで冷や汗を流しながら、ちらりと後方の金熊の顔色をうかがう。こちらは無表情に顎先を突き上げるだけだ。つまりはこの内容にはゴーサインということなのだろう。胃が痛い。それは五人前のラーメンのせいでないことは知れている。四面楚歌であるのは、大神よりもむしろ京の方だった。
「“ブレイク”したスプラウトの運動能力は確かに飛躍的に上がる、気がする。それがあんたの言う細胞のアップグレードってやつだったとして……多くのブレイクスプラウトが精神異常をきたして犯罪行為に及ぶ、のも事実だろ。“ブレイク”がそういうものである以上、いくら主張してもあんたのやったことは正当化されない」
「ん~、どこかからコピーアンドペーストしたような台詞だなぁ。そういうのはつまらないな、わざわざ浦島君を指名した意味が無い。もう少し本音でいこう。言っておくけどお互い最後のチャンスだよ、これが」
 そんなことは百も承知だ。だからこそ珍しく、細心の注意を払って慎重に事を進めようとしている。防御姿勢を崩さない京に、大神の方がしびれを切らしたように小さく嘆息した。
「言ったろう? 精神がイカレるのはアップグレードを拒否するからだ。アレルギー反応みたいなものだと解釈できる。それではなぜ、我々スプラウトはアップグレードを拒否してしまうのか?」
「……恐い、からだろ」
「その恐怖感はどこからやってきたのかねぇ……」
反射的に応えた京に、大神が待ってましたと言わんばかりに不敵に笑った。
「考えても見たまえ。“ブレイク”なんてそれらしき名前も、公表されている症状も対処もスプラウト当人たちには恐怖感しか与えない。その上原因不明なんて言われちゃあね。生まれてから死ぬまで怯え続けるしかない。『私はいつブレイクするのかしら?』『お隣さんはもしかしてブレイクしてるんじゃないのか』……至極当然の思考だ。君にも経験、あるだろ?」
 京は黙っていた。肯定はしない。しかしにべなく否定する気にもなれない。大神はその反応で充分満足そうだった。
「そこでそんな彼らに手を差し伸べる組織が登場。お宅らスプラウト・セイバーズだ。しかし実際スプラウトたちが持った感慨は“ブレイク”したら“セイブ”されるっていう新たな恐怖の上積みだった。こうして、スタンダードはこの社会における絶対的な優位性を確立したわけだ。スプラウトとは切っても切り離せない恐怖をシステム化してね。……原因は不明じゃない。スプラウトは恐怖でバグるのさ。そしてあんた方はそのマインドコントロールに一役かっている」
 大神の口調は特に大げさでも芝居がかっているわけでもなかった。淡々と事実を述べる、それにふさわしい最低限の抑揚。
「……浦島」
背後から金熊の有無を言わさぬ声が響く。京は眉をひそめながら項を掻くと、後ろ手にそれを制した。
「あんたの……考え方は分かった」
恐怖がなければ、“ブレイク”は起こらない。アイ細胞は進化し、より優れた人類が誕生する。その優れた人類が社会を牽引する。スプラウトがスタンダードに取って代わる。効率の良い社会、あるべき世界、自然の摂理に適った形に近づく。──そのための代償が、プリズム狩りの犠牲者で、怜奈なのだろうか。──それは怜奈でなくても良かったのだろうか。考えて、京はその言葉を呑みこんだ。
「それであんたが15年がかりでやってきたことは、実を結んだわけ」
「それも言ったろう。俺は種は撒いたが、水も肥料も別に俺がやらなけりゃならないってわけじゃない。花を見たいと思っている奴がやるさ。……そう思ってる奴は少なくない。あんた方の中にもいるくらいだしな」
「浦島……!」
目を剥いた京以上に、後ろに立っていた金熊の方が動揺していた。おそらくはマジックミラーの向こう側はこの二人以上に騒然としているだろう。
 急かされて、京は頭を掻きながら席を立った。
「結局俺ばかりがべらべらと喋ってしまったなぁ。まぁ、話せて良かったよ。浦島京介くん」
京は一瞬だけ大神のアイを見た。濁りは無い。そして澄んでもいない。十秒見つめたところでその感慨が変わるとも思えなかった。無言で背を向け、金熊と共に退室する。ほぼ同時に隣の部屋から宇崎だけが出てきた。
「金熊課長。分かってると思うが、今日ここで聞いた話は全て他言無用だ。……浦島も、いいな」
また完全にスルーされるのかと思っていた手前、必要以上に過剰反応してしまった。間の抜けた返事をしてせいで結局宇崎を不機嫌にさせてしまう。どうでもいいが相変わらずスーツが少し大きいのが気になって、愛想笑いをしながらちらちらと視線を泳がせた。
 その後、金熊だけが管理職群団に呼ばれ居残り。京は先に帰社するように言われ、その通り夕刻前には藤和支社に戻った。
 他言無用が増えていく。意識すればするほど無口になる。元来器用でない京はそれだけでいつもの二倍、疲労を感じていた。

Page Top