12月22日。スプラウトセイバーズ藤和支社、エントランスロビー。
受付の女性二人にいつも通り朝の挨拶を済ませ、京は真っ直ぐエレベーターに向かった。その横、普段は素通りされがちな何でも掲示板(各部署からのどうでもよい掲示が主にここに貼られる)に今朝に限って人だかりができていた。それも女性職員ばかりだ。その人垣の中に小雪の姿もある。何となく気になって、京も後方から掲示板を覗き込んだ。「クリスマスイブ特別企画! 藤和埠頭公園大イルミネーション」私が主役ですとばかりにど真ん中に貼られたポスター、その文言をそのまま読み上げる。聞き覚えのありすぎる声がいきなり上から降ってきたせいか、小雪が驚いたように目を見開いて振り向いた。背後には安定の気持ち悪さで佇む京の姿がある。
「ああ、毎年ね。やるよね、あそこ」
京は幾分興味薄につぶやいた。彼のぼやきの通り、藤和埠頭公園には例年クリスマスイブにこれでもかというほど派手なイルミネーションが設置される。そして例年その日に、藤和支社からはこれでもかというほどカップルが誕生する。そういう実績とジンクスみたいなものが相まって、女性陣はハイテンションになるのだろう。小雪はそういうわけではないらしい。「そうなんだ」という素っ気ない返事と共に再び掲示板に視線を戻した。
小雪は毎朝、エレベーターに乗る前にこの掲示板に目を通す。だからとりわけこのポスターに興味があったわけでも、周りの浮足立った女性職員に乗っかったわけでもない。それでもポスターに使用されている去年のイルミネーションの写真は、思わず足を止めて見惚れてしまう迫力と美しさがあった。
「見に行く?」
再び背後から聞こえた声に、小雪は一拍置いて振り向いた。たぶん、自分に向けて発せられた言葉なのだと思う。随分あっけらかんと誘ってくれるものだ、と一瞬呆れかえりながらもすぐに時間の無駄だと悟る。今までも何度となく繰り返されてきた「映画に行こう」だとか「デートしよう」だとかの延長線上なのだ。──たぶん。
実際その想像はあながち外れてもいなかった。京は京で、すぐに返ってこない「結構です」の言葉を待って疑問符を浮かべていた。いつもは割とかぶせ気味に、少なくとも5秒後くらいにはこの定型句が飛んでくるのだが。
「……業務がなければ」
小雪は無表情のまま早口にそう答えると、踵を返してやってきた上りのエレベーターに乗り込んだ。しばらく「開」ボタンを押しっぱなしにして京が乗り込んでくるのを待っていたが、彼はまだ掲示板に張り付いたまま動こうとしない。やがて諦めて、5階のボタンを押した。
学生のようにはしゃぐ女性職員たちで賑わう掲示板前、開いては人を乗せ上がっていくエレベーター、それらを背景にして京は凝固していた。そして慎重に、先刻のやりとりを反芻する。ついでに乏しい想像力を駆使して、省略された言葉を補ってもみる。
(業務がなければ、って。業務がなければ……見に行く、ってことだよな。イルミネーションを?)
一応の結論が出たところで再びポスターに視線を飛ばす。鬼気迫る勢いで細部の情報まで目を通した。12月24日、クリスマス・イブ、イルミネーション、限定クリスマスツリー、カウントダウン、諸々のキーワードを食い入るように見つめた。
(業務がなければ、イルミネーションを、見に行く。……俺と)
立ったまま、簡易の「考える人」ポーズをとって京はまだ合点がいかないようだった。沈黙が続く。その間も、出社した女性職員が入れ替わり立ち替わりポスターを前にしてはしゃぎあう声が聞こえていた。
「俺と!? マジかっ!」
あまりの驚愕と突然の発声に呼吸が乱れ、京はその場にしゃがみこんで老人のように噎せた。黄色い声しか響かなかった空間に「げぼげぼ」という小汚い効果音が割り込んできたのをきっかけに人だかりからは一人二人と去っていった。京が5階に上ったのは、出社して20分が過ぎたころである。
朝礼開始ギリギリに上がってきた京を、金熊は思いきり顰めつらで出迎えた。この男は往々にしてタイミングが悪い。へこへことしまりなく頭を下げながらデスクにつく京、その視界に苦虫をつぶす金熊と見慣れない男性職員が二名並んでいるのが映る。新入社員でも季節外れの異動社員でもなく、本社が派遣してくる監査畑の人員だ。年末を前にして、これも恒例であるから少し記憶を辿ればすぐに納得することができた。大抵はみちるが応対する。三日ほどかけて全社の帳簿と膨大な量のデータを照合して、小言を言って帰っていくのが常だ。しかし、今年に限ってはそうやすやすとクリアというわけにはいかないらしい。
「年末まで張り付くそうだ。で、今日の午後には私物のチェックとか倉庫のチェックとかもやるから整理できるものは整理しとけ」
というのが、朝礼後の荒木のアドバイス。どうやら昨日の大神の発言を受けての処置らしい、つまり本社もついに「内通者探し」に本腰をいれたということだ。理由を知らされていない多くの職員は苦言を呈するに違いなかったが、それをやりこめてでも炙りだしたいのだろう。
「こんな仰々しくやっちゃったら、出てくる証拠も逃げてっちゃうでしょ……」
ぼやく京の眼前では、シンのデスクのひっぺ返し作業が黙々と進められている。作業は黙々と進められたが、出るわ出るわのおびただしい数の名刺には逐一確認が入る。営業マンなら分からなくもないトランプ二束分ほどの量の名刺、その八割は女性のものだ。その一枚一枚についてどこで入手したどういう関係の者かを説明させられるシン。
「いや、説明できるのがすげぇな」
「その説明をメモる彼らの方がすごいですよ」
呆れを越えて感嘆を漏らす荒木と城戸、その後ろで何かに合掌する京。シンにせよ監査職員にせよ、確かにお気の毒である。しかし他人事だと思っていた監査の毒牙は、すぐさまフロア内の他の連中にも波及する。
「荒木主任、資料室の貸出帳簿はどこです? 閲覧期限を過ぎたものが放置されてありますね。管理責任者は?」
「え、貸出簿ってあれだろ。資料室にありませんかね。(……おい城戸、あそこの責任者ってなんだ、誰だ)」
「(何言ってんですか、今年は荒木さんでしょ)」
「私、……みたいですねー。貸出帳簿、貸出帳簿……」
「荒木主任、資料室のロッカーにそれらしきもの入ってますよ」
見かねた小雪が助け舟を出す始末である。荒木は小槌を打って、さも今思い出しましたといった風を装うとそそくさと資料室の方へ駆けて行った。後に続く監査員を横目にもう一人の監査員が京のデスクチェックに入る。言うまでもなく、ものの二秒で轟沈したのは監査員の方だ。
「浦島職員……なんです、これは」
「あー! ちょっと、それ! さわんないでっ、まだ全部貼ってないんだから」
四角いシールがびっしりと貼られた手のひらサイズのシート、シールのひとつひとつは一度はがしてはりつけたらしく全て一角がしわだらけだ。シン同様、その数が尋常ではない。国語辞書か何かと勘違いしそうな分厚さである。
「それ関係ないでしょ。あ、なんなら一枚あげましょうか。それねー、送ると抽選で特製しのぶジャージがもらえんの。いいでしょ、その目の覚めるような緑色が」
嬉々としてシールシートの詳細を語る京。彼の笑顔をよそに課長席では金熊が、隣の席では小雪がそれぞれ天を仰いで項垂れていた。