「……気分悪い、それ」
なにその“できるだけ真剣なかんじ”って──言葉にするのも苦痛で、小雪はそのまま席を立った。眩暈がする。視界がぐらぐらして、何が原因で気分が悪いのか分からなくなっていた。もしかしたら少しふらついたのかもしれない、京が「真剣なかんじ」で「心配そうに」立ち上がるのが見えた。それがやはりどこまでも不快だった。支えようとするその手を逃れるように、一歩引いた。
「私……京の、本気とか真剣とかってどれが本当なのかよく分からない……。これって、笑ってする話だったの? 私が、おかしいのかな」
京は押し黙ったまま項を掻いた。その仕草が、究極に困っている際になされるものであることを小雪は経験上知っている。彼は戸惑っているのだ。小雪もまた、彼以上に自分自身に戸惑っている。
「ごめん……別に京、悪くないから。気にしないで」
小雪は俯いたままそう告げると、京の横をすり抜けてエレベーターへ向かった。
本当にそう思う。彼は別段何も悪くない。ただ、直に毎日は会えなくなるのだと、共にセイブに汗を流すことはなくなるのだと、そしてそれはいちいち目の前が真っ暗になるような大げさなことではないのだと、自分に言い聞かせることが思った以上に困難だ。
「気分、悪いな……」
到着したエレベーターの壁にもたれながら、独りごちた。視界がぐにゃりとへしゃげる。見たり聞いたり考えたり、全てが面倒になって小雪は強く瞼を閉じた。
12月23日。スプラウトセイバーズ藤和支社、保安課。
二人の監査職員が叩くキーボードの音や書類を高速で繰る紙の音、それから普段は気にも留めない時計の秒針の音なんかが響いて聞こえる。室内は極めて静かだった。昨日に引き続き昼になっても出動要請ベルが鳴らず、法務課や生活課からの書類の催促もなく、極めつけにいつもは一人で五人分はやかましい男が電池が切れたように無言のためである。風邪のひきはじめなのか少し詰まったような金熊の呼吸音が、妙に耳触りだった。
謎の緊張感、居心地の悪い無言体制、その均衡を破ったのは意外にも電池切れ男ではなく彼女だった。「ドバン!」という何かオーソドックスな衝撃音が突如として轟く。入り口ドア──監査中のための閉じられている──の前で鼻っつらを押さえて呻く小雪がいた。どうやらドアに派手に突撃したらしい、一部始終を見てしまったシンと城戸はただただ呆気にとられている。状況だけは一応理解した京が、痛がる小雪の後ろからそっとドアを開けた。
「……ほんとに大丈夫か」
小雪は一瞬だけ視線をこちらに向けた。京の神妙な面持ちを見て、一秒かそれ以下の短い時間ですぐに視線を逸らす。そして何事もなかったかのように廊下に出ていった。結局この一部始終でシンと城戸が揃って笑いを噴き出した。そこへ輪唱するかのように加わる、新たな噴出音。小雪とちょうど入れ替わりのような形で乙女が入ってくる。
「相変わらず爽快な無視られっぷりね~。出動要請がないからってコントの練習ばっかりしてちゃだめじゃない」
監査職員が揃って目を光らせているような気配を背中に感じて、京は口をへの字に曲げて乙女を諌めた。今に限っては金熊と荒木も同じような顔つきで乙女を厄介者扱いだ。銃弾二発が太股を貫通している割には元気で、ここ最近は以前と同じ頻度で保安課に入り浸っている。松葉づえの扱いも慣れたものだ。
「っとぉ、絶賛監査中でした? それは失礼」
一昔前のぶりっこのように舌を出して笑う。どこまでも白々しい乙女の謝罪に、京は青筋を浮かべた。
「で、何の用……」
「『これだけメンツ揃えて机に半日張り付いといて、うちに提出される書類がこれっぽっちとは、保安課は鈍重の魔法にでもかかっているのかしら』なーんてことを確かめに来たわけじゃなくー」
「(乙女ぇ……っ)」
「これ。年末までに記入して金熊課長か私に直接返却して。面倒なのよねー、京の場合情報共有にいちいち認印とか必要で」
「それは俺のせいじゃありません」
肩を竦めた乙女から茶封筒をもぎ取って、一応中身を検めた。京自身のアイの基本情報から定期検査の結果、治療履歴など、スプラウト故の特殊な情報が数枚に渡って事細かに記載されてある。要するに、異動に伴う情報管理承認書だ。京は無造作に机の一番上の引き出し(昨日のうちに強制的に整理させられた)からシャチハタ印鑑を取り出した。
「署名してハンコ押しときゃいいんだろ? 今やるよ、絶対忘れるから」
「そうしてくれると助かるわ」
小雪が離席しているのをいいことに、これ幸いと京の隣に座りこむ乙女。そうなることを見越していたのか抜群のタイミングで、みちるが淹れたてのコーヒーを乙女の前に差し出した。
「なんだか……まだピンとこないね、浦島くんが春からいないなんて」
空になったトレイを胸元で抱え込んだままで、みちるが寂しそうに笑う。捺印マシーンと化していた京の手がはたと静止した。
「それっ。その反応待ってたんですよ俺っ。ごく普通に寂しがるっていう態度を誰ひとりとしてとってくれない!」
「そんなことないでしょう? 私もそうだけどシンくんや小雪ちゃんなんか特に、まだ驚きの方が強いんじゃないかな」
「あはは、驚き」
ごく普通に寂しがってくれるみちるの横から、とんでもなく乾いた笑いが聞こえる。相棒の異動処分に対して驚くどころか心の底から納得していた男は、当然のことながら寂しいなどというピュアな感情とは無縁だ。
「そういや小雪さんは? そこそこ寂しかったりするの? 京いなくなると」
そして読むべきときに敢えて空気を読まない男でもある。外出から帰った小雪に向けて、一番間の悪い質問を投げてくれた。無言無表情で入り口ドア前に突っ立つ小雪を見て、京はバツが悪そうにつくり笑いを浮かべる。
「あれ、ひょっとしてまずい質問だった? ごめーん」
一瞬凍りついた空気を、シンは確かに読みとった。読みとったからといってどうこうしないのが桃山流である。質問に答えるどころか話に加わろうともせず、小雪は何故か空になったみちるの席に近づいていく。
「あ、ごっめん小雪ちゃん。席ぶんどってたわね、私もう戻るから座──」
小雪の機嫌を傾けるのに、自分も一役買っていることに気付いたらしい乙女がそそくさと席を立つ。小雪は群がって自分を凝視してくる連中を横目で訝しみながら、みちるの席に設置されてある固定電話の受話器を取り上げた。そして元気に第一声。
「はい! スプラウトセイバーズ藤和支社保安課です!」
不意の大声に金熊も荒木も、業務に没頭していた二人の監査職員も揃って顔をあげた。目を丸くしているのは他の連中も皆同じだ。「ツーツー」と虚しく鳴りつづける電子音を聞きながら、小雪自身も鳩が豆鉄砲を食ったかのように目を点にしている。保安課内にいる全員が微動だにできずにいる中で、小雪は静かに通話相手のいない受話器を置いた。それとほぼ同じタイミングで笑いを噴き出すシン。
「こ、小雪さん? どうしたの……ご、ごめんちょっとおもしろすぎっ」
時間差でじわじわツボにはまったのか、言いながらシンが腹を抱えて離脱する。いきなりの一発芸を本人の意思とは無関係に披露する羽目になってしまった小雪は、赤面したまま凝り固まっていた。
「鳴ってる、ように思ったんだけど……」
弁解するように一応つぶやくが、そうでなかったことくらいはあの虚し過ぎる「ツーツー」音が既に証明してくれている。監査の手前、呆れかえるしかない上司陣と、いつも通り、否いつも以上に大笑いしてくれるシンと城戸、休憩にしようと再び給湯室に向かうみちる、恥ずかしさに耐えかねて小雪もみちるの後を追って給湯室に一時避難した。