「ブレイクしているかどうか、か? 見て分からないか? ブレイクしなければこんな馬鹿げた真似はしない。ブレイクさえしなければ……私がスプラウトであることを呪うことだってなかったんだ」
京は一瞬、後方のシンに目で確認をとってから、勿体ぶっていた二歩目を踏み出した。そのまま数歩、よし子に向かって歩みよる。視線は上向きのまま、靴音を立てないように慎重に配慮しながら距離を詰めた。
「セイバーズの経験からして言わせてもらうけど……。“ブレイク”の自覚があるスプラウトってのは相当に稀だ。と言うより、自我がある奴が稀だ。“ブレイク”ってのはさ、もっと──」
「うるさいうるさい! そう診断されたんだ……! ブレイクしたスプラウトは、アイを弄られて記憶も何もかもまっさらにされるんだろう!? それと、今ここから飛び降りるのと何が違う? 何も変わらない! 私が私でいられるなら飛び降りる方がマシだ!」
よし子はこみ上げてくる涙を振り払うように、大きくかぶりを振ると勢いよくしゃがみ込んだ。一瞬とは言え視界から姿が消えたことで、京たち二人の肝が凍りつく。
「よし子ちゃん、それくらい自我がしっかりあるなら、ブレイクしてたとしても、初期段階だろうから、アイを治療しても、記憶損傷までは、いかないんじゃ、ないかな~」
愛想笑いと苦笑いの融合のような中途半端な笑みを携えて、京がじりじりと鉄柵に近寄る。相変わらずシンは他人事のように後方で仁王立ちだ。
「経験上ね」
かと思えば微妙に補足を入れてきたりする。悠長にモバイルメールをチェックしているシンの神経は、太いだとか長いだとかの問題を越えておそらく鉄パイプなのだ。とにもかくにも相棒の援護は期待できない。
なんだかんだで、京とよし子の距離は3メートルに満たないものになった。ここまでくれば最悪力づくで取り押さえることもできる。後は彼女の一挙一動に神経(極細)を研ぎ澄ませていればいい。
「……貴様ら人間は悪魔だ。私たちがどんな気持ちでいるか分かろうともしない。分かるわけもない」
よし子は力なく呟いた。そこにはこれまでの達観したような嘆きとも、ヤケクソ半分の暴言とも違う、おそらくは彼女の本音であろう静かな怒りと悲しみが込められていた。
京が敢えて保っていた緊張が、苦笑で緩む。おそらく我関せずの相棒も同じ感慨を持ったはずだが、腹立たしいので確認はしない。しかし、最悪なことに──。
「分かるよ」
ハモった。抜群のタイミングに、京も咄嗟に高速で振り返る。シンは露骨に口をへの字に曲げてジェスチャーだけで京を追い払う。指示されるままに向き直ると、京は何を思ったかネクタイを解きワイシャツのボタンを上から順に手際よく外していく。
「何を……っ!」
一歩間違えばド変態どころか犯罪者だ。瀬戸際は心得ているのか、京がワイシャツをめくったのは左胸に刻まれた4桁の数字が確認できる範囲だった。人間でいうところの心臓がある位置、その上の皮膚に当てつけのようにその数字は刻まれている。
「アイ……ナンバー……」
「ご明察。ちなみにタトゥーでもシールでもペンキでもなく、正真正銘ホンモノですので。後ろで知らんぷりしてる奴もね」
シャツのボタンを止め直す京の後ろで、シンは文字通り「知らんぷり」だ。
“アイナンバー”は、スプラウトの左胸に刻まれる4桁の管理番号である。それはスプラウトがスプラウトたる所以の、“アイ細胞”を管理するパスワード、すなわち彼らの命の番号とも呼べるものだ。
「お前らスプラウト、なのか。でも、さっきセイバーズって……」
「別におかしなことじゃないだろ? スプラウトがスプラウトを守って何の不都合があるっての」
呆然とするよし子を満足そうに観察しながら、京はネクタイを──締め直さずに適当にポケットに突っ込んだ。
「ブレイクスプラウトの治療は、君の言ったとおりアイ細胞の移植か、リバイバルが主流だ。それには確かに記憶障害の可能性がつきまとう」
そういう結果を何度も見てきた。全てがそうなるわけではない、しかし高確率であることは紛れも無い事実だ。そのイメージはスプラウトに確かな恐怖感を植えつけている。無論、京とシンも例外ではない。
「それでも俺は……思い出ってのは、君が思ってるよりずっと強いものだと思ってる。大事な人の記憶ならなおさら、だろ」
京がちらりと振り返った先で、シンがモバイルを弄りながら指先でオーケーサインを作った。良いタイミングだ、自分より顔が良いことを除けばシンは相棒として申し分ない男である。
ビルの下方から、風音交じりのハウリング音が鳴った。
「よっちゃーん! 聞こえるかー!」
よし子が勢い良く顔を上げた。そしてそのまま自分の足元に視線を移す。野次馬の中で拡声器を握る男が目に入った。その姿を、一瞬で認められるくらいに、よし子はその男のことを知っていた。姿を確認して、すぐに涙が滲むほどに深く想っていた。
「ひとりぼっちだと思うのはもうやめよう! 悲しいことも怖いことも、ちゃんと分け合おう……! 僕も半分持つから!」
よし子の涙が風に流れる。シンの周到な情報収集と手配により、よし子の恋人は何とかこの場に駆けつけることができた。彼女の反応を見るに、事態はおそらくこのまま終息を迎えるはずだ。京が一足先に安堵のため息をついた、その瞬間。横風が、よし子の涙を──その体ごと──押し流した。
「よし子ちゃん!!」
あれだけ勿体ぶっていた最後の一歩は、この横風であっさり踏み出された。よし子自身思いも寄らぬ形でだ。拡声器などなくても悲鳴だけはよく響く。晴天の空に投げ出された女の体を目にして、人々は皆目を覆った。
「シン!」
何かの掛け声のように相棒の名を呼んだ。でなければシンはあのまま、京とよし子が仲良く連なって落ちていくのを、口を開けて眺めていたに違いない。
ほとんど宙に躍り出たよし子の胴に、大胆な痴漢のようにしがみついた京。彼もまた柵を思い切りよく飛び越えたため、頼みの綱はシンの踏ん張りだけだ。シンは小柄だが(そしてアイドル顔だが)腕力も体力もある。もっと言えば大抵のスポーツは人並み以上にこなす。つまりは世の男にとってかなり、いや、とんでもなく嫌味な存在だ。しかし今だけはそれが救いである。呼ばれた瞬間、条件反射でシンも京の足元に飛びついていた。柵にぶち当たり、何とか二人分の体重を支える。三人は十階建てビルの屋上で、見事に南京玉簾状態を決め込んでいた。
「シーン、でかしたー!」
「げ……限界……」
シンの小奇麗な顔が、これでもかというほど歪んでいる。支えられている人間玉簾の中間、京は顔面蒼白のまま笑顔をこぼしていた。
「イヤー! キャー! キャー! 離して、おろして、助けてー!」
すぐ下ではよし子が甲高い悲鳴を断続的に上げている。それを耳にして京がまた不謹慎にも笑いをこぼした。
「なんだ、よし子ちゃん……めちゃくちゃ生きてるじゃんっ」
「よっちゃーーーん!」
仮にも恋人が、見知らぬ男に背後から抱きつかれた状態で、命綱なしで空に宙吊りという奇天烈な光景を目の当たりにしては、彼も叫ぶしかないだろう。しかも抱きついている男はこの状況で高笑いをあげている。
「京……っ、限界……」
「シン、悪ぃ、もう少し踏ん張れよ。今体勢を立て直して……」
「くさい……っ」
「は?」