SAVE: 01 「よし」の笑顔をセイブせよ


 シンは二人を支え始めて数秒で、この体勢の限界を悟っていた。体力的なそれではない。京の足の臭気に耐えられる、自分の精神力の限界だ。
「無理、ごめん」
諦めるなら早いにこしたことはない。シンは止めていた息を一気に吐くと、同時に放り投げるように京の足を手放した。その瞬間、当然のことながら視界から京とよし子が消えうせる。
「シィィィィィィ~ン!」
徐々に小さくなる京の断末魔をBGMにシンは自分の無力を適当に嘆きながら、新鮮な空気を肺いっぱいにつめこんだ。
 次の数秒でいくつかの悲鳴、二人がたたきつけられたであろう「軽やかな」効果音、拍手と歓声が順序良くシンの耳に届く。噎せ返りながらシンは柵から身を乗り出して、地上の様子を伺った。
「良かったー。間に合ったみたいでー」
「シンっ! ごちゃごちゃ言ってないでさっさと降りて来い! あっさり落としやがって……!」
公園に張られた巨大トランポリンの中央で、京が拡声器を握っている。シンの呟きが聞き取れたとは思えないが、この状況を見て相棒が気だるく感慨を口にしているだろうことくらいは分かるらしい。言うまでもなくこのトランポリンもまた、シンが事前に手配していたものだ。
 気だるそうにシンが降りてくる。トランポリンの撤収を手伝っていた京が、額に青筋を浮かべて手招きしていた。
「ちょっと待ってよ。お礼を言われるならまだしも、キレられる筋合いないでしょ」
「お前……人を罵倒した上に空から投げ捨てておいてよく言えるな……っ」
「罵倒って。そうそう、それ、その足。異常事態だよ、早急に改善すべく対処した方がいいよ」
シンが汚物を見るかのように顔を歪めて、京の足元を何度か指差した。食い下がるのも認めているようで腹立たしいし、ここまで嫌悪を顕わにされるともういっそ気持ちが良い。京は口の端を引きつらせて無理やり笑顔を作って誤魔化した。そもそも口でシンに勝てた試しはない。
「あの……」
嘘くさい笑みを浮かべてにらみ合う中、おずおずとかけられた声に二人が振り返る。よし子が、彼に付き添われて頭を下げていた。
「その、なんて言ったらいいか……。巻き込んでごめんなさい」
「いえいえ、大した怪我がなくて何よりでした。と、申し訳ないですけど調書とりますので手当てが済んだらセイバーズの社用車に乗ってもらえますか、彼も一緒で構わないので」
二人で顔を見合わせて静かに頷く。あのプロポーズめいた言葉から何か続きがあったのかもしれない、よし子の様子も随分落ち着いたものになっていた。口調も穏やかだ。この際どちらが地なのかは詮索しないことにする。
 京は若干痛めた腰をさすりながら社用車に向かった。シンもそれに続く。
「あの! ──ありがとう!」
今度ははっきりと声をかけられた。不本意ながら思わずシンと目を合わせてしまう。そしてやはり不本意ながら、ぴったりの呼吸で振り向いてしまった。
「セイバーズですからっ」
 またもやハモった。
 最後の顰め面まで完璧なユニゾンだった。愛らしい笑顔をこぼす、よし子(仮)に一旦背を向け、二人は低レベルないがみ合いをしながら社用車に乗りこんだ。


「いやしかし本当に『よし子』だったとはなー……」
 スプラウトセイバーズ藤和支社5階、保安課の自分のデスクで、京はペライチの調書を仰がせた。あれから社用車の中で滞りなく調書をとり、彼女、よし子のブレイク検査のため帰社したのが数十分前。後は朝の事件同様、法務課やらシステム課やらの範疇になるから、保安課としての京とシンの仕事はあらかた終了と言えた。今回のような案件については、後は調書を元に報告書をまとめるだけなのだが、京はその作業が人一倍嫌いだった。だからこうして感慨に浸りながらぼんやりしている。体重を預けた拍子に、少し錆びた椅子の背が長い悲鳴をあげた。
「横着に寝そべらない! 誰が手当てしてやってると思ってんのよ」
「たたたたっ!」
京本人は実に短い悲鳴をあげる。腕と顔に数ヶ所作った擦り傷に、何故か保安課で油を売っている法務課主任、乙女が乱暴に消毒液をこすりつけてくれた。
「だいたい手際と準備が悪すぎる! なんでこの案件であそこまで派手な事態になるのよ、こっちは今朝の事後処理も残っててクソ忙しいんだから、余計な仕事は作らないでいただきたいわね!」
乙女は金熊課長の指示を受けて新入社員を現場に送り届けた後、結局事件解決までその場に留まった。よし子の恋人男性の連行や巨大トランポリンの手配は、実質乙女が行ったことだ。
「えー。乙女さんが『いっそ落とせばー?』って言ったんじゃ──」
「シンくん? 余計なこと言わないように」
シンはすぐさま両手を挙げて目を逸らす。逆らうべきものと巻かれるべきものの区別だけは完璧にしてあるのがシンだ。そしてそれをいつまでたっても全く理解しようとしないのが京である。
「鬼だな、お前。いや、昨今鬼でも言わないぞ、『いっそ落とせ』。……どれだけ修羅の道を走ったらそんな恐ろしい台詞が吐けるのか──」
京が黙った。傷口にねじこまれる消毒液に、無言で悶絶しているといった方が正確だ。反撃はものの数秒で終わった。
「ちなみに。スプラウトが十階だてビルから直情落下した場合、アイ細胞が完全に破壊される確率は65パーセント、35パーセントの確率で体がぐちゃぐちゃのまましぶとく生き残るというとんでもなくグロテスクな見せ物になるわ。その場合、区の不快物公開罪にあたり30万円以下の罰金及び、――ちょっと!聞いてるの!?」
「乙女、ちょっと黙って」
京は明後日の方向を向いたまま、夢遊病者のように立ち上がった。視線は保安課の入り口へ、そこだけ空気が違う。光が差している。いや光が、放たれている。
「あー、浦島。報告書の途中だと思うが、ちょっといいか」
入り口には保安課長の金熊が手持ち無沙汰に立っていた。光の正体は当然金熊ではない、そんな気色の悪い現象が起こったとすればそれこそ緊急事態だ、エマージェンシーだ。後光は課長の隣、真新しいスーツをきちんと着こなした小柄な女性から放たれていた。シンと比べても小さい。そしてシンよりも格段にかわいい。男と比べてどうのこうのというのも情けないが、この保安課でかわいい顔選手権を開催した場合、満場一致でシンが優勝するに違いないのだ。つまり基準は奴だ。
「課長、どうぞ。俺に何か、明らかに重要な話があるんですね?」
「あるんですね? じゃないだろうっ。お前まさか本気で忘れてるんじゃないだろうな! 今日からお前に新入社員をつける、そう言ってあったよな!」
「ああ……なんだ、その話ですか。うっすら覚えてましたよ。それとこれとどう……」
我に返ったか再び腰を下ろそうとして、直前でやめた。今度は椅子を蹴倒して立ち上がる。後ろで乙女がヒステリックに叫ぶ内容が耳から耳へ素通りしていった。
「そこまでやる気がないならやめてもいいぞ。……俺もだんだん判断を誤ってる気になってきたしな」
「課長っ! 課長の判断が間違っていたことなんか今まで一度として無かったじゃないですか! なあ!? そうだよな、みんな!」
「浦島、うるさい!」
「あはは、まさか保安課にそんな綺麗な子がくるなんて、浦島じゃなくても思わないからね」
主任の荒木が、その補佐の城戸が実に適当に応答した。

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