はぐらかされたような気がして、小雪は露骨に口を尖らせてしまった。それを見て京は苦笑いをこぼす。
「俺に限っては、ちょっと別の観点もあるんだけどね」
自慢か? ──補足にまたもや気分を害して、小雪は気のない返事をした。経験云々の話を出されると小雪は彼に何も言えないわけだから、黙って頷くしかない。その無言の仕草がやけに反抗的だ。
京は困ったように後ろ手に頭をかいた。本日も強力な寝癖を発見したが、今更である。料金を支払い、車に乗り込むとすぐにエンジンをかけた。
「とりあえず会社に戻ろう。課長にセイブ許可も申請しないといけないしな」
シートベルトを締めていた小雪が、勢い良く前のめりになった。急ブレーキはかけていない。そもそも車はまだ発進すらしていない。小雪には、京の発言の意図が理解不能だった。
「どうしてそう話が飛躍するんです!? 愛海ちゃんがスプラウトだったとして、あのやりとりでどうしてセイブする流れになるんですか!」
「分かった、説明するから。そうカッカしないで……」
「カッカなんかしてません!」
勢い良くシートベルトを締める小雪に愛想笑いして、京もひとまず車を発進させ会社への進路をとった。急ごうが慌てようがこの道路は込む。早速引っかかった赤信号を幸いとばかりに助手席に視線を移すと、小雪は完全にそっぽを向いてこちらに後頭部を見せていた。
「愛海ちゃんがスプラウトだろうってことは、昨日の朝の時点でおおよそ見当はついてた」
小雪が体を前方に向けたため、しっかり目が合った。残念ながら見つめあう時間はない、信号が青になり京は再び前方に視線を移す。
「彼女が言ってた秘密……あのギャル友達に握られてる弱みってのは、まさにそれなんじゃないかと思う。スプラウトであるってことは、小雪が言ったように一見しただけじゃ分からないよな? だからそれを隠して生活することもできる。そして今の世の中はその方が格段に生活しやす──」
「そんなこと言われなくても分かってます! 私だってスプラウトですから!」
ああもう! こんなこと口に出すつもりなんてなかったのに! ──小雪は言いながら既に後悔していた。入社時の資料は当然京にも渡っているはずで、彼が小雪の素性を知らないわけはないのだ、今更言うことではない。それも曲がりなりにも先輩社員の説明を遮ってまで。
それでも小雪の中で、昨日から引っかかっていたことではある。「セイバーズ全社でも異色のスプラウトコンビ」が自分の専任トレーナーにあてがわれたことが、どうにも公平でない気がしていた。スプラウトはスプラウト同士仲良く、そういう分け方をされた気がしていた。
「すみません。……今は関係のないことでした」
「……いやあ? 関係はあるんじゃない? セイバーズを続けていくなら今に限らずこの先ずっと」
予想外の反応に、小雪は思わず運転席に顔を向けた。京は先刻と別段変わらず、飄々とした様子でハンドルを握っている。具体的な不満を口にした覚えはない(態度には出ていたかもしれないが、それはあくまで京本人に対しての不満である)が、京は何となく、小雪の苛立ちの理由を理解しているようだった。京とシンがバディを組んだときも、もしかしたら小雪と同様のジレンマを抱えたのかもしれない。少し考えて、小雪の中に言葉だけでなく反省の気持ちが湧き上がってきた。話を元に戻すべく呼吸を正す。
「それで……愛海ちゃんをセイブするってことは、彼女は“ブレイク”しているってことですよね。その根拠は?」
「それがさっき言った“別の観点”なんだけど、小雪も知っといて損はない。ブレイクスプラウトは……“アイ”が断続的に濁る。ちょっと見たくらいじゃ分からないけどな、十秒くらい注意して見ないと」
小雪の脳裏にすぐに先刻の光景が蘇る。愛海の眼──彼女はスプラウトであるから、つまりはアイ細胞だ。京が確認したかったのは、愛海が本気かどうかではなくその“アイ”に濁りがあるかどうかだった。それを見極める十秒を確保するために、アツい小芝居を打ったのである。
「それじゃあ愛海ちゃんは……」
「ブレイクだ。段階までは判断できなかったから、できるだけ早くセイブしたいところなんだよな。昨日からの行動を考えれば、進行が早いタイプかもしれない」
「でもさっきの、……愛海ちゃんの言葉に嘘はなかったと思います。だからこそ浦島さんの目を見て言えたんだと思うし」
「俺もそう思うよ、本心だったと思う。でもブレイクすれば理性はぶっ飛ぶ。そうなりゃ今日交わした約束は守られない可能性が高い。そうなる前に何としても止めたいところだよな」
「浦島さん……」
小雪は、愛海を追って書店に入ってからの京の言動を思い返して、素直に尊敬の念を抱いていた。もしかしたら京は自分が考えているより、そして金熊課長が言うよりもずっと「デキる」社員なのではないだろうか。性格に多少、いやかなり難があることはこの際置いておいて京に対する考え方を改めるべきかもしれないと、胸中で自分に確認をとる。
「それにしてもブレイクスプラウトのアイが濁るなんて話、初めて聞きました。私の勉強不足ですね」
「ああ、実はそれ──」
京が申し訳なさそうに切り出したのを邪魔するように、携帯電話のバイブレーションが作動した。無線代わりにスピーカーモードにしてあるから運転中でも通話は可能だ。ひとまず応答しようとした矢先に、遅れて着信音が鳴り響いた。
『京チャ~ン、ゴハンニスル? オフロニスル? ソレトモ、ワ・タ・シ?』
「……はぁ!?」
機械的、だが乙女だとはっきり分かる声がスピーカーを通して車内にこだまする。着信音に設定されてあるらしく、それは何とも間抜けにリピートされ続けた。予想していなかった怪奇現象に凝り固まっていた京だったが、小雪の白けた視線に気づいて急いで携帯に手を伸ばした。
『京チャ~ン、ゴハンニスル? オフロニスル? ソレトモ』
「うるせぇ! 薄気味悪い仕掛けしやがってどういうつもりだっ!」
やっとのことで手に入れつつあった小雪の羨望の眼差しは、今や絶対零度の半眼に成り下がっている。京は通話ボタンを押すなりがなり立てた。
『薄気味悪いとはなんだ浦島ぁ!』
「は? 課長?」
乙女の悪ふざけが止んだと思うと、入れ替わりに金熊の怒鳴り声が響く。受話器に向かって唾を撒き散らしている光景がありありと浮かぶようだ。京はわけが分からず疑問符を頭の上に並べている。少し考えれば分かることなのだが、着信音が乙女の声に変えられていたとしても
通話相手が彼女だとは限らない。
「あ~はい、すみません。課長が紛らわしいタイミングでかけてくるから」
「わけわからんこと言うな! それよりお前今どこだ、白姫くんも一緒か」
「課長……なんでそんな野暮なこと聞くんですか。一緒に決まってるじゃないですか、俺と小雪は既に運命共同体なわけですから」
「浦島さん」
「……っていうのは冗談で。ちょうど社に戻ってるところですけど、事件ですか」
「事件も事件、大事件だ! お前! 昨日の自殺未遂の報告書、まだ上げてないだろ!? その前の食い逃げと引ったくりも! さっさと戻って今日中に仕上げろ!」
京は動じることなく、スピーカーの音量を手際よく下げた。
「聞いてるのか! 浦島!」
「あーはい、その件についてはおいおい頑張るということで……。そんなことより課長、今から送る写真の娘、至急セイブ許可願います。名前はウオズミ マナミ、愛するに海、藤和高校の生徒です」
再び目をむいて驚く小雪に京は淡々と携帯電話を手渡し、中に入っているデータを金熊に転送するように指示した。いつ調べたのか、いつ撮影したのか、聞きたいことはいくつもあったが小雪はひとまず言われたとおり、愛海の情報を送信した。しばらく電話口が静かになる。