そのアイコンタクトが、あるときシンの一方通行になった。小雪の射るような視線がホール入り口に向けられている。次の瞬間には、彼女はケイタイを取り出しながら移動を始めた。シンには視線だけで報告を済ませる。遅れて交わされたアイコンタクトで、二人の間に緊張が走った。
ホールの両開き扉を開け、ロビーに出た途端辺りが静かに感じた。小雪が不本意ながら真っ先にとった行動は、京への報告だ。歩きながらケイタイの短縮キーを押す。
「小雪です。単独行動の不審人物を追います。対象はグレーのスーツ、ホールを出て非常口方面に移動中」
通話がつながったことが確認されるや否や早口に吐き捨てる。そして間髪いれず、容赦なく切る。電源を押す寸前に案の定、京の大げさな雄叫びが耳をかすめた。
ロビーには用を足しに一時的に出てきたほろ酔いの男性数名と、同じく化粧直しに出てきた女性数名と、数えるほどしか人がいない。その中を早足ですり抜ける背の高い男は、どうにも目だつ。何かを探しているのか周囲に目を配っているが、その視線が明らかに「トイレはどこかな」といった生易しい目的でないことを物語っていた。実のところ、この男は行動を起こす前から小雪の中の不審者リストに組み込まれていた。──理由はひとつ、ごく単純なものだ。
「御手洗いならロビー右手ですよ」
小雪は先手を取った。スーツの背中が強張ったように見えたが、それも一瞬だけだ。振り返った男性の表情は、はにかんでいるような面食らったような曖昧なものだった。瞼の厚い、人のよさそうな男だ。但し油断は禁物、後ろ姿からでも分かったがかなり肩幅が広い。体育会系と呼んで間違いはなさそうだった。
「あー……えーっと、参ったな。迷ったみたいで。あはは」
ぎこちなく笑う男の首元で、使い古したネクタイが揺れる。これが、小雪がこの男をマークした理由だ。そこそこ良い生地のスーツに、この色あせたネクタイはいかにも不釣り合いだ。場に溶け込むために慌ててしつらえましたと言っているようなものである。
「その先は〝関係者以外立ち入り禁止"です。そうでかでかと書いてあるんですけど」
「あー。うーん、弱ったな。お嬢さんは、赤井さんとこの警備員さんかなんかかな」
「……違いますけど」
「お嬢さん」呼ばわりに条件反射で眉をしかめてしまう。この男にしたってまだ若造といった年齢だ、せいぜい京と同い年といったところか。短く刈り込んだ後頭部をさすりながら、ひたすら小さく唸り声をあげている。
「じゃあ、まあ、仕方ないかな。ちょっと申し訳ないけど」
「は?」
油断は禁物──今しがた自分に言い聞かせたはずの言葉が遅れて頭に響く。気付いたときには小雪の体は宙に浮いていて、天地がくるりと逆さまになっていた。
(やばい──!)
受け身は完璧にとったがこの巨漢に馬乗りになられては流石に身動きがとれない。幸いだったのは、小雪が「受け身を完璧にとった」という事実に男の方が面くらっていたことだ。おかげで彼が颯爽と援護に入る──そして華麗に事態をややこしくする──絶好の隙ができた。
「こぉゆきぃぃぃ!!」
ガッシャーン!! ──雄叫びと共にガラス窓が割れる。若干の生傷をこさえつつも、その男は救世主となるべく駆けつけた。いつになく切羽詰まった真面目な顔で何か叫んだようだったが、彼の登場と同時に鳴りだした警報のせいで内容は全く不明だった。小雪はマウントポジションをとられたまま、今日一番の不審者を見る目でその男、浦島京介を見やった。
「小雪ぃぃ! 大丈夫か!? 野郎、生かしちゃおかねぇ!」
警報に負けじと吠える京、からそそくさと目を逸らす小雪、の二人を交互に見やりながら特大の溜息をつく不審人物(仮)。溜息をつきたいのはこちらだ、何故お前がつく。その疑問の答えは案外にあっさり開示された。
「ってあれ、亀井ちゃん? 何してんの」
京が声を裏返す。
「浦島……やっぱお前んとこが絡んでたか。こうなるから嫌なんだよ、事前に情報共有してりゃ……って、あーもう言っても仕方ないか」
男はまた別の理由で深々と嘆息した。警報に混ざってごく近くで多数の足音が響く。一切合財聞こえないかのように京はマイペースを崩さない。膝上に残ったガラスの破片を鬱陶しそうにはたき落としている。
「いやいや仕方ないとかじゃなくてさ。何、どーゆーこと。逆に何でそっちが噛んできてんの」
「もうっ! 落ち着き払ってないで助けに来たならきちんと助けてよ! なんなの!」
「小雪さんっ」
小雪がしびれを切らしたところで、今度は別の助太刀が入る。多数の足音の先陣を切っていたシンが血相を変えて駆けつけるも、状況を目にした途端そのあまりのお粗末さに目を逸らした。不審者が全員身内の場合、取るべき行動として正しいのは他人の振りに他ならない。
「なんだ! なんなんだお前らはっ! パーティーがぶち壊しだ!」
続いて到着した赤井が、顔を真っ赤にしていきり立つ。結局、小雪は駆けつけた常駐の警備員たちに助け出される始末で、状況からして京とこの「亀井ちゃん」が拘束されるのは致し方ないこととして見送らざるを得ない。諦めていないのは京本人だけだ。
「いやいやいやいや! 赤井社長っ! 誤解ですよ、ゴ・カ・イ。自分はこの不審者をマークしてまして、彼女がピンチのところを助けようとしてですねっ」
「それで? 窓をぶち破って不法侵入したわけかね? 理解不能だな、良識ある大人のすることとは思えんよ」
(うわー。正論)
シンは一歩引いた位置で事の成り行きを見守っている。京の場合、弁解すればするほど墓穴を掘るだけだ、助け舟を出してやりたいがこれ以上セイバーズの信用を失うわけにはいかない。
涙目の京には悪いが、ここはひとつ全ての罪をかぶってもらうしかない。
「社長、こいつらは警察に引き渡しますか」
「後回しだよそんなものは! どこかにぶち込んでおけばいい! 私は会場に戻る、おい君らはお客さま方にお詫びの品を手配しろっ、それからすぐこの警報を止めろ! 早急にだ」
社員と警備員が各々慌てて四散する。赤井はそれも見届けずに踵を返すと足早にホールに駆けていった。
「えーと、そういうことみたいだから僕らもホールに戻ろっか」
シンが至って平静を装って小雪に促す。ワンテンポおいて警報が止んだ。
「そうね。引き続き、警備を」
小雪も常駐の警備員に礼を言うと咳払いしてシンに合流する。無論、京と謎の男はこの場に置き去りにして、だ。
「浦島、お前相変わらずだなー……」
「亀井ちゃんには言われたくない」
二人は警備員に連れられて、事務室とも資材置き場ともつかない雑多な小部屋に通された。
京に関しては一応身元が知れているし、拘束まではされない。が、当然外から鍵を閉められた。内鍵は見当たらないから、どちらかと言えば資材置き場に近い場所なのだろう。
積み上げられていた段ボールを横によけ、京は埋もれていたパイプ椅子に腰かけた。
「で、亀井ちゃんは何でこんなところで思いっきり不審な行動をとってたわけ。営業妨害でしょ、どう考えても」
「それを言うなら、お前の部下、か後輩か? 公務執行妨害だぞ。……急所蹴られるところだった」
京が躊躇わず笑いをふきだすのを横目に、亀井は状況を思い出して青ざめた。京が窓をぶち破って現われなかったら、今頃相当情けない態勢で悶絶していたところだ。そんなことになれば署内で大目玉の上笑いの種だ。助けられたのは実はこの男の方だった。
藤和署刑事課、それがこの若手刑事の勤務先である。そして京とは高校時代からの腐れ縁だ。