男と亜里沙を追って地下迷路に踏み込んだ小雪が、まずしなければならなかったのは靴を脱ぐことだった。低いヒールでも音は鳴る。とりわけこのアトラクション内では必要以上に響く。小雪は視線の先に二人を捉えたままパンプスを脱ぐと入り口の隅に並べて置いた。床は本物の地面ではなく、プラスチックのような滑らかな素材だ。踏みしめてそれを確かめると一定の距離を保って尾行を開始した。
「パパはね、お皿屋さんなの。とってもきれいなお皿とか、カップとかをね、おきゃくさんに売ってるの」
亜里沙の声が反響して聞こえる。男の革靴の音と、亜里沙のスニーカーの僅かな足音の他に音はない。それは二人っきりであることの証明には十分だったが、男は何度も後方を振り返っては他者の存在を気にかけていた。その度に小雪の肝が冷える。
「それは、凄いね」
「お兄ちゃんは何屋さんなの?」
状況にそぐわない、やけに微笑ましい会話が交わされていた。緊張で冷や汗が止まらないのは小雪だけなのかもしれない。生唾さえ、慎重を期して飲み込まなければならなかった。
「お兄ちゃんは……人形を売ってるんだ」
「お人形屋さん!?」
「うん、そうだね、お人形屋さん。亜里沙みたいなお人形をたくさん買ってくれる人がいてね」
「えー? 亜里沙みたいなぁ?」
その瞬間、小雪の背筋に冷たいものが走った。男の極端に抑揚のない声と、亜里沙の弾む鈴の音のような声が反響して混ざる。それに加えて、心中で京の声が響いた。
──プリズム専門の売買ルートなんてのも、セイバーズが把握してるだけでも結構ある──
「……だけど、たくさん買ってくれる人が、この前警察に捕まってしまってね。数じゃなくて質で商売していくしかなくなったんだ。亜里沙がいてくれて本当によかったよ」
「むつかしくてよく分かんない……」
「分からなくて当然だよ。亜里沙には脳みそがないんだから」
男はぎこちなく笑って、ハーフコートのうちポケットから22口径の小銃を取り出した。笑顔とは対照的にその動作があまりにもスムーズで、小雪は一瞬何が取り出されたのか分からなかった。亜里沙はなおさらのこと、額に押し当てられた冷たい銃口をわけもわからず見つめるだけだ。
コッキング音──それが響くよりも少し早く、フライング気味に小雪は飛び出していた。どこからともなく、それも足音ひとつさせず猛突進してくる人影におののいて、男は引き金を引かないままだった。小雪は亜里沙に飛び掛って、転げるようにして男と距離をとった。
「なんだ。お前」
男は取り乱している風ではなかった。おかげですぐさま銃口は小雪に向けられ、答える間もなく発砲された。弾は小雪の顔の30センチほど横を通り過ぎて、ハリボテの岩に穴をあける。耳をつんざくような銃声に、亜里沙が反射的に悲鳴を上げて泣き出した。
「亜里沙ちゃん、大丈夫だから……! ここから出るからね!」
「パパぁぁぁ!」
小雪が立ち上がると同時に、また銃声が響く。認識できたのは音だけで、弾の行方を気にしている猶予はもはやなかった。号泣する亜里沙を抱え、入り口の方へ全力で駆ける。後方で革靴の音が激しく鳴った。
「やだぁぁぁ! 怖いよおおぉ!」
亜里沙の絶叫内容には同意を示すが、今はそのせいで隠れるということができない。迷路の中を闇雲に走っても、亜里沙の泣き声ですぐに見つかってしまう。亜里沙は落ち着くどころかより一層けたたましく泣き出した。これではどちらが誘拐犯だか分からない。
(こういうときに限って、なんで一人なのよ!)
また脳裏に、京の渋り顔が浮かんだ。
──別行動か? ……あんまり賛成できないな。今の状況でばらけたら互いにフォローしづらい──
あのちゃらんぽらんな男の言うとおりになった。缶コーヒーだか缶緑茶だかが20円値上がりしただけで、職務放棄を宣言するようなふざけきった男の言うことは、なんだかんだでいつも正しい。肝心なときに限って正しいのだ。それが悔しすぎて熱いものがこみ上げてきた。が、抱えている女の子がサイレンのように泣き喚いてくれるので、小雪の分の涙と恐怖心はどこかへ消え去る。
後悔と反省は後でしようと決めた。今は出口に向かって走ることだけを考える。亜里沙を抱える腕に力をこめた。
「おい、どっちだ! 右! 左! 真ん中!」
京は、焦っていた。
「真ん中なんかないよ。どうしよっか。さっき右行ったし、統一して右攻める?」
シンは、いつもどおりのマイペースで目の前の分岐路を品定めする。
「だいたい荒木さんもなんで引きとめとかねぇんだよ……! すべては俺の判断ミスでっていう流れだったのに、こうなったらすべては荒木さんの判断ミスでって結末になるよな!?」
「うるさいなー。何? そんなに小雪さんになんかあった方がいいの?」
「いいわけないだろ!」
「だったらさー、京もちょっとは冷静に、小雪さんの靴の臭い辿るとかしてよ。得意でしょ、そういうの」
京は一瞬、握り締めていた小雪のパンプスに目をやるが、すぐに小さく嘆息した。
「ごめん。冗談」
シンは空気を察すると、悪びれた風でもなくさっさと謝った。
二人は、迷っていた。精神的にではなく、物理的に道に迷っていた。地下迷路というだけあって中は複雑極まりなく先刻から袋小路に陥っては引き返し、同じ広間に出ては首をかしげの繰り返しだ。普段なら大人も子どもも一緒になって楽しめるアトラクションなのだろう。
荒木からの連絡を受け、すぐに二人で地下洞窟探検コーナーに駆けつけた。迷路の入り口に、意味深に脱ぎ揃えてある小雪のパンプスを見つけて、後はご想像通りである。
と、京が一瞬にせよ黙ったおかげで、洞窟内に何か別の音が反響していることに気が付いた。二人で訝しげに顔を見合わせて、京は壁に耳を当てる。確かに誰か別の、足音らしきものが壁を伝って響いていた。注意を払えば、それが男の歩幅であることくらいは分かる。第一小雪は靴をはいていないはずだ。
(どっちだ……)
方向までは掴めない。近づいてきているのか、遠ざかっていくのか、それすらも曖昧だ。しかし心配するまでもなく、それはもっと別の確かな形で示された。
ダァァァァァン……! ──銃声。コンサートホールで思い切りシンバルをたたきつけたような残響が聞こえる。京は持っていたパンプスを投げ出して、左方向へ全力で駆け出した。
足を撃ち抜かれたわけでもないのに、小雪は膝をついて痛みに耐えた。視界がちかちかと点滅する。おそらくアイ周辺を撃たれたのだと思う、不確かながらも目元をぬぐうと血液がこびりついてきた。ホラーハウスに、こういうマネキンがあったような気がして眩暈を覚えた。隣では、座り込んだまま亜里沙がしゃくりあげている。
「お、お姉ちゃん……アイ?……から、血が……」
「大丈夫……。かすっただけだから」
傷を負ったのはこめかみのあたりらしい。それだけ確認できれば立てる。男は顔色ひとつ変えず、硝煙の上がる銃口をこちらに向けていた。そして顔色ひとず変えずもう一度引き金を引く、はずだった。小雪が男をにらみ付けると同時に、男は目を見開いた。
驚愕と歓喜と狂気で、こみ上げてくる笑いを止められず天井を向いて高らかに声をあげる。
「俺はツイてる! こんなことってあるのか!? なあ! あんた、俺のために来てくれたんだろう!? 俺を助けに来てくれたんだろう!?」
「何言ってんの……」
堰を切ったように笑い始めたこともそうだったが、今の今まで蚊の鳴くような声でぼそぼそと喋っていた男が感情をむき出しに叫びだしたことのほうが、小雪には不気味だった。