「スプラウトも、人間も、どこまでいっても不完全だ。……でも、あんたたちプリズムは違う。あんたたちこそが唯一の完全なんだ」
小雪は電流が走ったように、全身が痺れるのを感じた。咄嗟に撃たれたほうの左目を覆う。おそらくはもう、どんな仕草も手遅れだ。カラーコンタクトの外れた小雪の左目は、亜里沙と同じ──あるいはそれ以上に──虹色の光彩を放ち輝いていた。
──〝プリズム"については、知ってるよな? ──
ああ、もう。今日はやたらに、あのろくでもない先輩セイバーズの声が駆け巡る。知ってるも何も、当然でしょ。ずっとそうやって生きてきたんだから。ずっと隠して、生きてきたんだから。
「でもこのままじゃ駄目なんだ。“あの人”が言ってたよ、ブレイクしてこそ完成品なんだって」
いつのまにこれだけ距離を詰められたのか、分からなかった。男の両手は小雪の細い首を軽々と包み込んで、一気に、絞める。歪む小雪の顔、とりわけそのアイを恍惚の表情で男は覗き込んだ。
「そうか……やっぱり、こういうのは苦しいんだな。へぇ……」
感心そうに呟くと手の力を緩めた、かと思うと左手だけで小雪の喉元を押さえ、余った右手で再び銃を握る。額から口元、胸、腹と順に銃口を滑らせて照準を吟味しているようだった。
「アイは撃てないから、ここか」
人間で言うところの心臓、胸の中心に狙いが定められた。小雪の視界はぐらぐら揺れて、古ぼけた8ミリビデオのように不鮮明だった。
引き金を引く、小さな音が耳元を掠めた。それが人生最後の音になるのだろうと、ぼんやり覚悟を決めていたが、実際はけたたましい銃声まで聞こえた。更に予想外だったのは、自分の鮮血が飛び散る音までが、やけに生々しく聞こえたことだ。冷たい。よく分からないが、舞い散った血がとてつもなく冷たい。
「づめたぁっ!」
だからそのままを口にした。小雪本人としては「冷たい」ことを訴えたつもりだったが、いきなり気道が広がったせいで噎せながらの第一声になった。
カンッカラカラカラ……──そしてすぐ横で響く謎の効果音。展開についていけない、ついていく必要があるのかすら分からない。何はともあれ生きているのだから呼吸が優先だ。
「小雪っ!」
「小雪さん!」
面倒なのがセットでやって来た。状況は分からないがそれだけは分かる。そして、それだけでもう安心だと思ってしまう自分がいる。座り込んだままで、ままならない安堵の溜息が漏れた。
「見たか、シン! ありえねぇ! マジで当たった!」
「あー、はいはい見た見た。とりあえずさ、あの犯人らしき? 奴は任せていいんだよね?」
「当然だろ! 任せろ!」
京がわき目も振らず男に突進するのを横目に、小雪は自分の横に転がっている缶の残骸に目を向けた。“高級緑茶しの──”おそらく“ぶ”があったであろう箇所は人差し指サイズの穴が開いていてもう読めない。ついで小雪は、自分が妙に緑茶くさいことに気が付いた。
「まさかこれ……投げたの」
駆け寄ってくるシンに問う。
「いやだってさー、駆けつけたら小雪さん既に完全なる絶体絶命状態なんだもん。もうちょっとねばってくれないとさ、こっちも割り込みようがないっていうか」
それでこの緑茶缶に全てを託したというのか。小雪は先刻思わずもらした安堵の溜息を、今一度吸いこんでなかったことにしようと思った。名誉の殉死を遂げた「しのぶ」をゴミでも見るかのように恨めしそうに見やる。実際もはやゴミなのだが(リサイクルゴミ)。
「それよりあいつ、銃持ってんのに京一人で大丈夫なの!?」
思い出したようにシンに向き直る。京の安否のことはかろうじて思い出したが、自分のことについては忘れたままだった。返ってくるはずの、いつものシンのゆるい返答がない。シンは口を半開きにしたまま小雪の顔を見つめていた。
(しまった……)
ばつが悪そうに俯く小雪、その胸中を察してシンは何も言わずに亜里沙を抱きかかえる。
「大丈夫だと思うよ」
遅れて返ってきた反応に、小雪は地面を見つめながら「うん」とだけ呟いた。
小雪の視線の上の方で、京が男にタックルしているのが見えた。いきなり現れて緑茶缶をぶん投げてきたスーツの男、それで銃をはじかれるなんて夢にも思わない。加賀見は虚を突かれたまま、気づけば地面に押し倒されていた。握っていたはずの銃が、いつの間にか緑茶男の手に渡っていて、それが喉元に突きつけられていることを知る。自嘲して笑いが漏れた。
「……楽しそうで何よりだな。こっちは男に馬乗りになっても全く嬉しくないんだけど」
「人間は、的が大きくて当てやすいだろう」
「は?」
京は思い切り不快そうに眉根をひそめた。言っている意味が、分からないでもないから不快なのだ。
「しかし壊れても、次の電池は入れてもらえないんだ」
京はその瞬間、自分でも驚くほど躊躇なく引き金を引いた。加賀見の喉元、から数センチ離れた地面に弾はめり込み、硝煙の香りがまた不快を誘う。加賀見は悲鳴ひとつあげず、怒りを顕わにする京を何か不可思議なものでも見るように覗き込んでいた。京はその目を見て、すぐに逸らす。
「あんたの目玉はブレイクスプラウト以上に濁ってるな」
京は再び加賀見の喉元に銃口を突きつけた。撃つつもりはない。おそらくそれが、さっきの威嚇射撃で露呈してしまった。次の行動を考えあぐねている余裕はなさそうだった。そこへ、
「浦島、ストップだ! 直に警察が来る!」
荒木が到着するなり血相を変えて叫ぶ。マウントをとって、鬼気迫る勢いで犯人に銃口をねじ込んでいる部下がいれば荒木でなくてもそうしただろう。
「……だそうだ。あんたは俺たちの管轄外だから」
京は言いたくもない台詞を、またもや嫌悪しながら吐き捨てた。こういう下衆な男でさえ、自分たちには取り締まる権利がない。
「なるほど。スプラウトセイバーズ、か」
「何が可笑し──」
京がかけていた体重を緩めた直後に、加賀見はバタフライナイフを振りかざした。京のさして高くもない鼻頭をかすめてそのまま空を切る。その悪あがきが、京の闘志に火をつけた。正直、使い慣れもしない拳銃なんかは浦島京介には不要である。渾身の力で以て加賀見の腕をナイフごと引き寄せると、その勢いのまま右内股を大きく上方に払い、投げた。「跳腰」と呼ばれる内股に良く似た柔技だ。京本人はいつもこれを内股と言い張るが。
「おおー。いっぽーん」
「じゃなくてナイフ! 手伝えよっ」
悠長に拍手するシンに恨みがかった視線を送る。シンが面倒そうに寄って来て、ナイフを蹴り上げたところで、荒木が謎のジェスチャーを全身で繰り広げているのが目に入る。なぜジェスチャーなんだとか、それが何の意味を持っているのかだとか深く考えもせず、京とシンは加賀見を押さえ込んだまま朗らかに笑っていた。そこへ、本来のご担当者様方が到着する。ばたばたとした忙しない足音に加え、聞き覚えのある声がこだました。
「浦島ぁ~……またお前か~……」
藤和署刑事課の皆々様のお出ましである。上司の隣でげんなりする亀井の姿を見て、京は愛想笑いを浮かべながらも加賀見に腕ひじきを決めていた。と、シンは数秒前まで「僕も貢献しましたよ」風を装っていたのに、それが一転「僕はノータッチです」とばかりに両手を挙げている。お前は犯人か。
「いや、いやね、亀井ちゃん。聞いてくれる? ほら、現行犯。ナイフとか銃とか、もうありえないよこいつ。はやく連れて行っちゃってっ」
京が懸命に指し示すナイフとか銃とか、は確かに見て取れる。刑事課の強面連中に救い出される京(もしくは加賀見)をぼんやり眺めがら、亀井は大きく溜息をついた。
「……まぁ大まかそちらの主任さんから事情は聞いてるから。……ひとまずその銃から、お前の指紋が出たりとか、硝煙反応が出たりとか、そういう面倒なことにはならないよな?」
返答がない。
「浦島?」
「亀井ちゃん……ハンカチ持ってる?」
大きく天を仰ぐ亀井、懇願する京。今回の件はどこからどう見ても膨大な量の報告書になる、それに次いで始末書まで上乗せされたら生きていけない。唸る亀井にしがみついて土下座をしようと座り込んだ矢先だった。