SAVE: 05 春の芽吹きにご用


 神楽も気づいて腕時計に目を落とした。覚悟はしていたが昼食は抜くしかない、今から病院に帰って休憩時間ぎりぎりというところだ。少なからず空腹を覚えている神楽の横でさっさと会計を済ませるシン、店を出る間際に紙包みのサンドイッチを神楽に手渡した。神楽もよく買う、この店のテイクアウト商品では一番人気のものだ。シンも同じものを手に抱えている。
「電話するよ」
シンは癖でまた口角をあげた。女の子を目の前にして笑うのは、もう癖みたいなものだ。『その方が円滑に進む世の中』だと思うからそうしてしまう。それでも必要以上に作り笑いを浮かべるような真似はしなかった。一応誠意を持って言った言葉だ、嘘だと罵られてはたまらない。神楽もそれを察して仕方なさそうに笑って頷いた。
 神楽と別れて数十秒後、タイミングを見計らったかのように京からの電話が鳴る。サンドイッチを頬張りながら通話ボタンをタップすると、すぐさま京の声が外に漏れた。
『シン、今どこだ? 出るぞ、通報入った』
「えー……。いいよ、遠慮するよー。たまには小雪さんと二人っきりで行ってきなよー」
『アホなこと言ってないでさっさと戻れっ。もしくは途中で拾うから』
 口を開けばアホなことしか言わない男に窘められるとは心外だ。カンパニーで、緊張感のある出動要請ベルを聞くのと、昼さがりの駅前でサンドイッチを食べながら又聞きするのとでは気持ちのスイッチの入り方が違う。シンは改めてそれを実感した。
「いいよ、直行する。現場どこ?」
 その間にやる気満々組との温度差を、ある程度埋める必要がある。足を速めた。
『まさかの二連発、南藤和。出るなら出るで朝から言っといてくれりゃあ待機したんだけどな』
「それってさあ、露出狂?」
『? なんでわかった?』
 シンはげんなりした表情で、一度固く瞼を閉じた。速度を徐々に緩め、一旦停止する。目を開けた瞬間に眼前の光景がきれいさっぱり消え失せてくれることを祈ったが、確認する前にいくつかの悲鳴が耳元をよぎった。視線の先で、どこまでも楽しそうに下半身を露出した男が立っている。周囲の悲鳴が心地よいらしい、今にも踊り出しそうだ。
『……できるだけ早めに向かうから、対処よろしく』
 悲鳴は通話口を通して京まで聞こえたようだ。シンは面倒そうに生返事をすると手短に電話を切る。何となく、後方を確認した。竹中神楽と別れた後だったことは不幸中の幸いかもしれないと思い直す。それから、喜色満面で駅前通りを闊歩する裸の王様に視線を移し、距離を詰めた。
「スプラウトセイバーズでーす。楽しそうなところ大変申し訳ないんですけど、通報があったんでぱぱっとセイブさせてもらいますねー」
 結局、やる気だとか緊張感だとかをあげることはかなわなかった。シンのテンションは最低気温のままだ。できるだけ下方に視線を向けないように注意を払いながら、早速スプラウトの内股を払う。おそらくマニュアルに従えば、まずは説得から入らなければならないのだろうが、そんなことは知ったことではない。何が起きたのか理解できないままバランスを崩した男を、そのまま薙ぎ払って路面で抑え込んだ。周囲で悲鳴と喝采があがる。シンはそれすらも聞き流して、とにかく空ばかりを見ることに努めた。
 気持ちも装いも春めいた男とは対照的にシンのやる気と同じくらい冷えた空気が、薄汚れた雪をつくってのんびり降り始めた。


「──っていうことがあの後あって。神楽さんに糾弾された後だったからさー、もうテンションさがってさがって」
 南藤和の二連発セイブから三日、シンは約束どおり神楽に電話をした。そして約束どおりこうして二人で食事をしている。港湾区にあるドイツ料理の店「ラプンツェル」は、高層ビルの中腹にあり、夜景と料理が評判だ。視界に入る全面ガラス張りの壁には、フェアリーランドのカラフルなイルミネーションと、港に停泊する船舶の淡い光が調和した幻想的な景観が映し出されている。
「きゅ、糾弾なんかしてないでしょ。話を大きくしないでよっ」
 慌てふためく神楽を見て、シンは思わず噴き出した。馬鹿にしたのではない。南藤和の喫茶店で「デキる看護師」のイメージを保ち続けた彼女が、今日は何となく合コンのときの可愛らしい印象に戻っているように思えたからだ。それでも神楽は少女ではない。店に合わせて選んだのだろう形のきれいなネイビーのワンピースは、線の細い神楽によく似合っていた。
「その……そういうふうに“セイブ”されたスプラウトはどうなるの? 拘置所みたいなところに入るとか」
「不正解。アイを削って記憶末梢」
 ワイングラスを握っていた神楽の手がとまる。シンは至って平静にハムを口に運んだ。入念に咀嚼しながら神楽の顔を見つめる。次の言葉を厳選するために目を伏せた彼女を見て、シンはさすがに可哀そうかなと思いナイフを置いた。
「……っていうのが一番極端な例で、記憶障害は結果的にそうなる場合もあるって話。会話ができる程度のブレイクならほとんどが治療と書類送検で終わるよ。この前の南藤和の件みたいにね」
何事もなかったかのようにビアマグを手にとる。
「他に質問があれば答えるよ。今日はちゃんと、セイバーズの桃山心太郎として来てることだし」
 神楽は複雑そうに微笑を浮かべてゆっくりワインに口をつけた。そういえば、今日のシンはほとんど作り笑いをしない。時折、神楽の反応を見て童顔が引き立つようなあどけない顔で笑うことはあっても。シン自身が話をするときは、やけに冷めた口調であるのも特徴的だった。必要に応じて嘘をつくと宣言した彼がそうしないのは、神楽が嘘をつく必要性のない人間だと判断されたからだろうか──それを考えると少しだけ頬が紅潮するのが分かった。ごまかすようにワインを流し込む。
「そういう段階のブレイクスプラウトは……結構いる、ものなの?」
「うーん……何とも言えない質問かなぁ。ガン患者の総数に対して、末期の人は結構いるものなの? っていうかんじじゃない?」
 不謹慎のような気もするが、神楽には判り易いたとえだった。
「それじゃあシンくんも、そういうセイブに立ち会ったことがあるのよね」
「そりゃあね。……そのあたりの対処で、見解の相違が生まれるわけ。倫理観とか、道徳観とか、そういうのは人それぞれだからさ。宗教国家でもない限り統一はできないでしょ」
 神楽はシンの言葉のひとつひとつを、自らの状況に換言して考えた。脳死の判断、安楽死や尊厳死の基準、昔から議論され続けているのに永遠に統一されない。神楽自身、それで苦い思いをしたこともあった。それだからシンの淡々とした口調は胸に刺さる。
「だから、スプラウトそのものを“絶対的に理解しない人”もいる。それも少数じゃない。……って僕は思ってる。別に悲観的に捉えてるわけじゃなくて、事実として認識すべきことだと思うから」
 シンの言葉は、スプラウトを理解しない人間を批難する風ではない。どこまでも客観的な見解だ。それはその分野に身を置く人間としては珍しいような気もした。それとも神楽が自らの分野に、私情を持ち込みすぎているのだろうか。思いながらかぶりを振った。
「でも、シンくん自身はスプラウトを“理解をしようとする”人でしょう? そういう人たちが集まってセイバーズという組織があるんだから。だったら、そういう人はきっと外にもたくさんいるって思いたいじゃない」
「たくさん、ね。それは言い過ぎ」
「……冷めてる」
「事実だよ。この前も言ったけど、理解しようとする人がいることは知ってる。現にいま僕は神楽さんにペラペラ自分の内情を話してるわけだし。こんなの同僚にだって話さないよ、普通」
「そう、なんだ」

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