SAVE: 05 春の芽吹きにご用


 デザートが運ばれてきた。サワーチェリーにクリームがたっぷりのった「ローテグリュッツ」。赤と白の鮮やかなコントラストに感激したふりをして、神楽は今度こそ見事に紅潮した頬を何とか隠そうと努めた。同時に、勘違いはしたくないなと自分を律する。シンは誰がどう見ても場馴れしている。「君にだけ」はおそらくよく使う言葉のはずだ。神楽としてはそれなりに経験もあるし、年下の男相手に振り回されるのは本意ではなかった。ひとつ気にかかるのは、シンが例の極上のつくり笑いを未だにしないことだ。その代わりとばかりにやけに声をあげて笑う。今がまさにそうだ。
「神楽さーん。なんかそのベリー並に顔赤いけど大丈夫?」
「大人を馬鹿にしないで」
取り繕って大きなサワーチェリーにフォークを突き立てた。シンが笑う。意地悪な小学生みたいに。この表情を独り占めできているという事実は、少なからず神楽の気持ちの高揚を促していた。
 食後のコーヒーまで堪能し、二人は店を出た。シンはいつの間にか会計を済ませていた。これも約束通りだ。他愛ない話をしながら駅の改札前まで二人で歩いた。神楽がここで振り返る。
「ここで。二駅だから」
「駅から近いんだっけ」
「歩いて五分かからないから」
「じゃあ大丈夫か。ここのところ変なのが多いから気を付けて」
例を挙げると痴漢常習スプラウトだとか、露出狂スプラウトだとか、とにかく春めきまくった連中だ。思い出してもげんなりする。それを見透かして、神楽が小さく笑った。
「今日はありがとう、きちんと話が聞けて良かった。また──」
口をついて出かけた言葉に、神楽ははっとしてそれを飲み込んだ。
「電話するよ」
飲み込んだはずの言葉の続きを、シンが口にした。この男は欲しい言葉をさらりと口にする。それが社交辞令でないことは神楽にも分かった。何かの勝負に敗北を期したように肩を落として嘆息すると、神楽は少し赤らんだ顔のまま手を振って自動改札を通り抜けた。
 ふと視線を落とした時計は午後九時を指している。電車を待つ人も乗る人もまばらだった。空席が目につくが、神楽は出口付近のつり革に掴まった。それから何となく周囲を見渡すと、思い直して長椅子の真ん中に腰を下ろす。シンが南藤和で立て続けにセイブしたスプラウトが、痴漢だの露出狂だのと聞かされれば短い帰路にもそれなりに警戒心がわいた。とはいえこの時間帯の乗客は、仕事に疲れて舟をこぐサラリーマンかイヤホンを装備してモバイルをいじり続ける若者に二分される。他人に干渉する元気と余裕のある乗客などは皆無だ。
 神楽はバッグから自分のモバイルを取り出し、メール作成画面に切り替えた。「今日はありがとう」と打って静止していると、電車が速度を緩め始めたことに気づく。バックスペースを連打して席を立った。シンへのお礼なら別れ際に言った。そのすぐ後にメールを送るのも、なんだかわざとらしい気がした。
 いつものホームに降り、通りなれた改札を抜け、歩道橋の階段を二三歩上がったときだった。右腕に激しい痛みが走り、神楽は持っていたバッグを落とした。何だろう──コートが切れて、中に着ているワンピースの生地が顔を出している。更に言えば、その下の肌には赤い血が一直線に走っていた。心臓が、一度大きく脈打った。背後に男がいる。夜の闇に溶け込むように全身黒い、その中で手に持っている包丁は異彩を放っていた。男は野球のピッチャーのようにゆっくりとその手を振りかぶった。


 シンのモバイルが振動したのは、彼が伊佐保の駅前公園で、自販機のボタンを押した瞬間だった。全身を打ちつけながら躍り出てくる缶コーヒー、それを取り出しながらモバイルのディスプレイを見る。すぐさま応答ボタンをタップした。
「神楽さん? どうしたの」
『シンくん……! た、助けてっ!』
走りながら通話をしているらしい、声が上下している。シンはすぐさま踵を返し、公園前に縦列駐車しているタクシーに目を配った。
「今どこ!」
それだけを聞くと、目についた先頭車両に強引に乗り込んだ。行き先だけを早口に告げる。
『シンくんっ……』
「いいから。すぐ行くからそっから動かないでよ。できるだけ奥側のレジに近いところに立って、店員から見えるようにして」
 震える声で応える神楽、彼女は走っているのではなく恐怖で声が上ずっているのだ。駅からやけに離れたコンビニにいるらしい。
 タクシーがコンビニの駐車場に乗り入れるとほぼ同時に、シンはメーターよりも多い金額の札を置いて飛び出すように車を出た。神楽は指示通り、奥にあるレジ前でホット飲料をひたすら眺めていた。シンが扉を押して中に入ると、場違いなほどに愉快な来店音楽が流れた。
「神楽さん」
その中でシンの強張った声が、やはり場違いに響いた。その目に、青い顔をして両腕を抱え込む神楽が映る。コートの袖が切れていることは誰が見ても一目で分かる。アルバイト店員が品出しをしながらちらちら神楽を見ているのはそういうわけだ。その定着しない視線がシンにも注がれる。
「……神楽さん、出よう。家まで送る」
頷くか頷かないかの曖昧な角度で首を縦に振る神楽。シンはその手をとって足早にコンビニを出た。出た直後に、シンは神楽に向けて深々と頭を垂れた。
「ごめん。僕が送らなかったから」
「なんで……シンくんが謝るの。私こそ、ごめんなさい。ちょっとパニックになって、咄嗟に電話しちゃって……」
 シンは頭を下げたままかぶりを振った。
「電話してくれたのが僕で良かったよ。……挽回するチャンスがもらえたってことだからさ」
 神楽がようやく困ったように微笑んだ。小さく震えるその手を引いて、シンは教えられた道をゆっくりと歩く。道中で、「話せる範囲で構わないから」と付け加えて神楽から状況を聞き出した。歩道橋の下で突然切りつけられたこと、その後数十メートルにわたって追いかけられたこと、コンビニにたどり着くころには姿が見えなくなったことなどである。
「怪我は右手だけ? 帰ったらすぐ手当してよ? 本当は僕がしてあげたいところだけどね」
冗談ともつかない会話を織り交ぜながら、シンは時折声を潜めて早口に自分の見解を述べた。神楽が明らかに不安がるのを見越して、繋いでいた手を強く握り返す。マンションの入り口に着いたところで、その手をあっさり放した。
「じゃあ……戸締りしっかりして。また何かあったらすぐ呼んでよ、いつでも駆けつけるから」
「頼もしいね、ありがとう。でも、大丈夫だと思う」
 この日初めて、シンは神楽に対して極上の作り笑いを浮かべた。が、それは本来的に神楽を欺くためではない。彼女もそれを察しているから、同じように気丈に笑みを作った。手を振って別れると、神楽は玄関の扉を開けるため暗証番号を入力し始めた。番号は4桁、一つ目を押して振り返る。シンの姿は既になかった。二つ目、三つ目とそのひとつひとつを確かめるようにゆっくりと押す。四つ目──ロックが外れる電子音が鳴り、神楽は扉を押し開けた。
「があぁぁぁぁ!」
 その瞬間に獣じみた絶叫が上がった。マンションの陰で待ち伏せていたのだろう、神楽の背後に包丁を振りかざす男が立っていた。神楽は肩をきゅっとすぼめ恐怖に耐えるばかりで悲鳴すら上げられなかった。その背中を力強い腕に押される。
「入って扉閉めて!」
初めて聞くシンの切羽詰った声に、困惑しながらも神楽は言われた通りエントランスに逃げ込みロックをかけた。ガラスの扉一枚を隔てた先で、シンが包丁を持った男に掴みかかっている。

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