SAVE: 06 ールサイドの悪夢


 半分泣き声の女性教諭に、鬼パンの怒りはマックスまで達したようだったがそれはそれ、ハリネズミのように逆立った頭髪をわしわしと掻いて駆けだした。
「白姫さん、悪いが授業進めといてくれ!」
「小雪さん、ごめん! 僕も行くわ!」
「ちょ、ちょっとっ!」
ここまで騒然となっているのに授業も何もあったものではない。柴田が溺れ、女性教諭は立ちつくし、生徒たちは混乱の渦に放り込まれている。
「もう! ……二年生はここで待機!」
小雪は地団駄を踏んで、先の二人とは別の方向へ走り出した。


 都心の一画、乙木町の駅から歩いて二分の場所に、アイスモナカをひたすら積み上げたような面白味のないビルがある。京は、そのモナカの中腹程の階にある小会議室で、生きた死体のように虚ろな目を宙に向けていた。スプラウトセイバーズカンパニー本社、最後に来たのがいつで何の用事だったかも思い出せないほど、京とは無縁の場所である。それだから居心地は凄まじく悪い。居心地は悪いが、睡魔はそれを気にしないらしい。筆記試験を終えて束の間の休憩時間を与えられた今、この今こそが京にとっては戦いだった。
 高級緑茶「しのぶ」に含有されているカフェインでは全く太刀打ちできないほどに、睡魔は断続的に、且つ陰湿に京を襲う。この地獄のような休憩時間が終われば、すぐに面接が始まる。やるべきことは乙女が準備してくれた対策問題集に目を通すことで、決してケイタイの蓋を開けたり閉めたりすることではないのだが、京は半ば無意識にそれを繰り返していた。
 着信、メール受信、共にゼロ。腹立たしさを越えていっそ清々しい。
「シンの野郎……報告入れろよなー……」
 小雪は連絡を入れてこないだろう。試験中の自分を気遣ってくれている、そうに違いない。この「新着メールはありません」表示こそが、小雪の優しさの表れなのだ。そういうわけで文句はすべてシンに集約される。
 本音を言えば、とにかくどちらでもいいから中間報告を入れてほしかった。そういう風に釘を刺さなかったのは自分のミスだ。リズムよくパカパカさせていたケイタイを、思い切りよく開く。考えた末に、短縮ボタンを押した。眠気覚ましにもちょうど良いかもしれない。
『はい白姫! 何! なんかあった!?』
 小雪は半コールで電話に出た。今までで最速記録かもしれない、おかげで眠気が吹っ飛んだ。
「なんかというか……そっちどうかなー? と思って。それと、まあ何? 面接前に一回、小雪ちゃんの声を聞いて元気を──」
『ぶぁかっ! 空気読んでよ、今それどころじゃないの!』
 こてんぱんである。眠気で乾ききっていた瞼に、じんわり涙がこみ上げてきた。
「小雪、何か……」
 キャーーーー!! ──小雪の応答の前に、遠くで悲鳴が聞こえた。女の──おそらくは女子生徒──のものだったと思う。説明はなかった。電話は既に切れ、簡素な電子音だけが何度も繰り返し京のこまくを揺すった。
「いや……きゃーって……」
 悲鳴の上がるような講習内容ではない。百歩譲って鬼パンが何かしでかしたとしても、シンが居ればそこそこの対処はできるはずだ。京はすぐさまシンの番号に電話をかけなおした。三十秒待たされる。挙句、素っ気ない女の声で留守番電話に繋がれた。もう一度、小雪へ。──出ない。
「何なんだよっ」
 苛立ち任せに声を上げた直後、ノックが響いた。ケイタイを耳に押し当てたまま返事をすると、係の女性がドアを開け、半身だけを室内にのぞかせた。
「浦島さん、直、面接時間ですから。五分後にまたお呼びしますので、準備お願いしますね」
「え。あー、はい」
思いつく限りの適当な返事をするも、女性は何ら気に留めずさっさと身をひるがえしてドアを閉めた。腕時計に視線を落とす。針は無音で動いていた。実際には小さく音を立てていたのだろうが、京の耳に聞こえるのは電話の呼び出し音だけだ。そして、先刻の女性と同じくらい素っ気ない、留守番電話の対応。京は苛立ちのあまりケイタイごと右手を震わせて、ゆっくり静かにその蓋を閉じた。
 おかげさまで、眠気はきれいさっぱり消え失せた。冴えた頭で、今成すべきことを冷静に考える。再び腕時計に視線を落とし、与えられた時間を確認した。


 そのころ、藤和高校は史上最悪の恐怖と緊張に覆われていた。このまま対処を誤ると、死人が出るかもしれない。その恐怖感は、シンにさえも迅速な行動をとらせる。プールの水面にはハリネズミのように逆立った頭髪だけが、「浮き」のように揺れていた。
 シンはスーツの上着を脱いでネクタイを取り、当に着衣水泳状態でプールの中に居た。潜った先で、とにかくとんでもなく不快な目に合っている。くぐもっている外部の悲鳴やら雑音の中から自分を呼ぶ声が聞こえ、勢いよく水面に顔を出した。プールサイドを見ると、野次馬生徒に紛れて、息をきらした小雪がいる。
「ごめん! 排水できないかと思って職員室に行ったんだけど、誰も分かる先生がいないの! っていうか、分かるのが鬼ヶ島先生らしくて……っ!」
「なにそれ。最悪」
シンは声も潜めず思い切り思ったままを口にした。小雪の言う通りなら万事休すだ。鬼パンなら今シンの真横で沈んでいる。詳細を密に示すなら、排水溝に足首まですっぽり詰まらせた上で、意識を失い、沈んでいる。
 何でこんなことに──考えずにはいられない。水中で揺らめく鬼パンを、迷惑極まりない顔で見下した。
「すいません……、すいません俺が……」
 小雪の隣で、元凶が毛布に包まれて震えていた。そうそう、彼だ。柴田くん。元を正せば彼が溺れたとか何とかの騒ぎではなかったか。それが何故、鬼パンにすり替わっているのだろう。一部始終目の前で見せられたのだから疑問を抱くまでもないが、シンは遠い目をして回想にふけこもうとしていた。
 鬼パンとシンがプールに駆けつけたとき、柴田少年は確かに溺れていた。元々水泳が得意ではなかったらしいが、今日のこの、着衣時に限って足がつった。恐怖と混乱とでひたすらにもがく柴田、それを見て周囲もパニックになった。一番舞い上がっていたのは監督である女性教諭で、彼女が真っ先にとった行動は女子生徒と一緒に悲鳴をあげて鬼パンに助けを求めることだった。そしてそれが、この悲劇を生んだ。
 鬼パンは颯爽と駆けつけるや否や、脇目も振らずプールに飛び込んだ。上がる水しぶき、なおも暴れる柴田少年、そしてその彼に脳天を殴られあっけなく失神する鬼パン。そのようにして三分クッキングよりも手軽に、この光景は出来上がったわけである。更に悪いことに、鬼パンの筋肉質の足と排水溝は、パズルのピースのようにがっちりと絡まりあっている。シンが聞きたいのはこのあたりだ。どうやったらこうも奇跡的に面倒な状況を一瞬で作り上げられるのか。
 しかたなくシンが飛び込んで、柴田を引き上げた。それから嫌々ながらも鬼パンを担ぎあげようとしてそれがままならないことに気付いた。気づいてからもう二分近く経っている。流石にまずいかもしれない。シンは決断を迫られていた。そして一度大きく天を仰ぐと、ありったけの空気を吸って潜水する。南無阿弥陀仏。
 きゃあああああ! ──水中のシンにも、歪んだ悲鳴が聞こえた。一人ではない、女子という女子がこぞって絶叫している。悲鳴をあげたいのはこっちだ。鬼パン相手に水中で人工呼吸、今までの人生を振り返ってみてもここまでひどい罰ゲームはなかったように思う。悲鳴はいくぶんはしゃいでいる気もするが今は目くじらを立てている状況ではない。排水溝に視線を移す。次はこの、見事としか言いようがない嵌り具合の、鬼パンの足を引き抜かなくてはならない。シンはプールの横壁に両足をついて、さつま芋でも掘り返すのかというほど万全な態勢で背筋に力を込めた。が、抜けず。一度水面に顔を出した。周囲の音が一気にクリアになって、生徒たちの色めきだった悲鳴や盛り上がり──はっきり言って盛り上がっていた──がシンの苛立ちに拍車をかける。それを遮断すべく再び潜り、一連の動作を繰り返した。

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