SAVE: 06 ールサイドの悪夢


 プールサイドから上がる悲鳴は、藤和高校全体に響き渡り、金網の向こうには教師、生徒関係なく人垣ができていた。半ば部外者である彼が、それを掻き分けて現場にたどり着くにはそれなりに骨が折れた。タクシーを降りてここまで全力疾走してきたおかげで、首やら脇やらは俄かに汗ばんでいる。スーツの上着を脱ぎながら、どうやら最後らしいジャージの群れを押しのけた。断続的に聞こえていた甲高い悲鳴は、やはりここが発信源だった。すぐ横で、興奮気味に女子生徒たちが叫ぶ。プールの中には二つの人影が揺らめいていた。そのひとつが、勢いよく顔を出す。
「あ~! 気分悪くて死にそう! 小雪さん、こっち代わって!」
「代わるの駄目! 絶対!」
歯切れの良い返事が聞こえてくるはずだったが、実際は何かのスローガンのように断固として拒否された。しかもこの場にいないはずの男の声でだ、目をむいてプールサイドを振り返る。
「……なんでいんの?」
「なんでじゃねえよ、なんだこの有り様……」
京が引きつった顔で、ぬれねずみと化したシンと──生きているのか死んでいるのか判別しがたい鬼パンを見下ろしている。小雪との通話の最後に残された、意味深な悲鳴の元を辿った結果がこれだ。小雪の方は、まさかあの会話が原因で京がすっ飛んで来るなどとは夢にも思っておらず、声も出さずただただ唖然としていた。
 京は、おろしたてのピンストライプのネクタイを荒っぽくほどくと、ほとんど躊躇せずプールの中に飛び込んだ。状況説明は誰からもなされないが、現場がここで、事件が勃発中なのだから見た方が早い。振り向きざまに小雪に二三指示を出した。水の抵抗を受けながらもシンと合流する。間近で見て、殺人現場に遭遇したかのごとく思い切り顔をしかめた。
「地獄絵図だな……」
「状況把握したところでさ、代わってよ。僕が足引っこ抜くから」
シンが先刻からしきりに交代を要求しているのは、もちろん鬼パンへの水中人工呼吸の方だ。一拍置いてそれを察すると、京は再び口の端をひきつらせて断固拒否した。
「ふざけんなよ。俺はあくまで助っ人で──」
「じゃあやっぱり小雪さんに代わってもらってよ。もうほんと、限界だから。ありえないから」
「小雪が鬼パンとチューしてる光景の方がありえねえだろ! いいからボンベ役やってろ! 
おっさんがどざえもんになる前にとっとと終わらせるぞ!」
京はぐずるシンより一足早く潜水、鬼パンの足首に両手を掛けた。シンは一旦深々と嘆息して空気を吐き出したあと、再び二人分の空気を吸い込む。潜水すると、それだけでフライング気味に悲鳴があがったのが分かった。もはや見世物である。
 水中で、京はごぼごぼと空気を吐き出しながら鬼パンの足と格闘していた。押しても引いても音沙汰なし。途中からは鬼パンの足を折ってでも引き抜こうと、加減なしに取り組んだがこれにも効果はなかった。鬼パンの足も折れない。鉄筋か何かでできているのだろうか。二人は示し合わせて、揃って水上に顔を出した。無酸素の中で暴れたせいで思わずむせる。
「んだよっ、抜けねーじゃねーか!」
「だからこんな一番とりたくない手段とってんでしょ」
水中では力んで、水面ではシンと全力で罵り合う。血圧が上がりそうだ。肩で息をしながら何気なくプールサイドに目を向けると、ちょうど小雪が注文のものを持って駆け付けたところだった。マイナスドライバーとニッパー、それからいくつか使えそうな工具類。
「……もういっそ電ノコかなんか持ってきてもらえばよかったな」
 それらを受け取りながら京が本音をこぼす。
「はあ? 物騒なこと言わないでよっ。それと、排水。さっき別の体育科の先生に頼んだから直に始まると思う」
「直にって……まぁ、直に鬼パンも帰らぬ人になると思うけど」
言いながら、小雪の究極に冷ややかな視線を受けて慌てて愛想笑いを浮かべた。ドライバーを得意げに掲げて逃げるように水中に潜る。シンは他人事のようにそれを観察していたが、水中では京が眉をひそめて手招きしていた。
 マイナスドライバーを排水溝の「際」に差し込む。思ったよりぴたりと嵌った。シンが潜ってきたのを横目で確認して、京はてこの原理で力点であるドライバーのもち手に体重をかける。手ごたえはある。身体が浮かないように忙しく水を掻きながら、歯を食いしばって力を込めた。むき出しにした歯と歯の隙間から気泡があがる。京の背後では、それよりも多量の気泡が排出されていることに気づき、ふと視線を後方に移した。
 なるほど、悲鳴があがるわけだ──シンのような精悍な顔立ち(京としてはいちいち認めたくない)のユニセックスともいえる若い男が、猛獣か珍獣の境界線を常にうろうろしているような中年男の唇を、けっこう強引に奪っている。最初は興味とある種の興奮からあげられていた悲鳴も、今や完全に純粋な恐怖と心からの嫌悪がこめられたものに変わっていた。シンにとっても、藤和高校の生徒たちにとってもこの光景はトラウマになりそうだ。適切な心のケアが必要だろう。などと哀れみの目をシンに向けていると、手元の重みが急に無くなった。
(抜けた!)
 シンも気づいて、二人で共に鬼パンの体を引き上げる。鬼パンの足は、排水口の鉄のリングを付けたままではあったが、折られることもなくもがれることもなく無事救出された。
「ぶはぁっ!」
 二人が水面に顔を出したときには、悲鳴は止んでいた。代わりに拍手と歓声が出迎えてくれる。ところどころで指笛も鳴っていた。
「すげぇー! やるじゃーん!」
「鬼パ~ン! だいじょぶ~?」
 そうだ、英雄ぶって両手をあげて応えている場合ではない、鬼パンの生死を確かめなければならない。見るとシンはさっさと鬼パンをプールサイドに引き上げて、自分はその横で口元を押さえてうずくまっていた。
「おい、生きてるか」
「たぶんもう死ぬと思う……」
「お前の話じゃなくて……」
 けしかけるがシンはもう再起不能らしい。仕方なく京がプールサイドに上がろうとすると、小雪が駆けつけてきた。手には大量のバスタオルを抱えている。そのまま鬼パンのジャージのファスナーを勢いよくおろした。
「うわー! 小雪! 触んなっ、それの処理は俺がやるから!」
「もー……首尾よく解決したかと思ったらすぐそういうこと言う」
 たっぷりと水を吸った鬼パンのシャツ、その厚い胸板に生えた豊満な胸毛がシャツの下から透けていた。胸毛が上下する。いや、胸板が上下しているということは、シンの犠牲も報われたということだろう。三人は各々にそれを確認すると、誰ともなく安堵の溜息を漏らしていた。
「お、鬼ヶ島先生~!」
「鬼パン、生きてるらしいぞー! タオルタオル!」
 狼狽要員でしかなかった女性教諭と、牽引力のある生徒の何人かがばたばたとこちらに合流してくる。それを見て、小雪が慌てて京とシンにバスタオルを投げた。ありがたいが、できれば優しい労いの言葉を添えて、手渡ししてほしいところだ。
「俺たちはいいから先に鬼パン……」
 タオルを受け取ったままぼんやりしている京、それに痺れを切らして(早い)小雪が仕方なく手持ちのタオルで京の両肩を包んだ。
「ナンバー」
 言われてようやく、京が左胸を押さえた。
「……ここではバレない方がいいでしょう?」
 京のシャツは鬼パン同様吸えるだけの水分を吸って、ホットミルクの上膜のように上半身に絡み付いていた。そこから透けるような胸毛は、あいにく京もシンも持ち合わせていない。その代わり、胸毛より克明で、ここで晒すには確かにまずいものが左胸にある。
 京は頷いた。自分の胸部に触れる小雪の両手を包み込もう──などというよこしまな考えは、お粗末に響きだしたケイタイのバイブレーションでどこかへ飛んでいった。小雪が腕にかけている京のジャケットから振動音は聞こえる。満面の笑みだった京の顔から、血の気が引いていった。
「まずい……」

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