SAVE: 06 ールサイドの悪夢


 バイブレーションが停止するまで、京は金縛りにあったかのように微動だにしなかった。それが止むと、恐る恐るケイタイを取り出し蓋をあける。
「うわー。新手のストーカーみたいだね」
状況を察したシンが、横から画面を覗き込んできた。着信履歴が凄まじいことになっている。スクロールしてもスクロールしても表示されるのは「課長」の文字ばかりだ。それも1分置き、ざっと30回。
 既に青ざめきった京の額から、水滴とは別にナイアガラの汗が流れ始めていた。


 いつもは開け放たれていて、ほとんど扉としての機能を果たそうとしない保安課のドア。それが今に限って、京の帰社を拒むように閉じられていた。扉が重い。開けた先に待っているであろう究極の試練、そのいくつかのパターンを想定しながら京は、ままよとドアを押した。
「浦島、戻りました」
 京を視界に入れるなり荒木と城戸がデスクワークを中断し、俊敏に席を立った。誰がどう見ても「避難」だ。荒木の席はとりわけ課長席に近い。
 京は慎重に視線をスライドさせる。十字を切る荒木・城戸組から無人になった二人のデスク、放置された書類、そしてその隣、課長席へ──。
「う~~ら~~し~~まあぁぁぁ」
地の底から這いあがってくるような低い声と共に、金熊はおもむろに席を立った。椅子のキャスターが後ろに転がっていく簡素な音が、やけに場違いだ。
「課長、えーっと……すみません、今回の件はですね」
入り口付近から、京は一歩後ずさった。ダメだ、これ以上近づいたら五体満足で帰れないかもしれない。本能と経験が警鐘を鳴らしていた。
「緊急事態だったことは、その、確かで。ほらほらほら、俺の昇進ひとつで人ひとり命が助かったと思えば安いもんじゃ……」
「馬鹿野郎! バカだバカだと思ってはいたが、どこまで記録更新すれば気が済むんだお前は! お前だけの話で済むなんてことあるわけないだろうっ! そんなことすらわからんレベルか!?」
「……いえ」
「だったら認識通りの行動をとれ! 上に立つってのはそういうことだ、思った通りには動けなくなるんだよ。そういう当たり前の覚悟もなしに昇進試験なんか受けるな! 迷惑だ!」
 息を呑んだのは入口に突っ立ったままの京ではなく、その後ろで入るに入れずにいた小雪の方だった。金熊は普段、京の勝手気ままな行動にそこまで目くじらを立てて怒鳴る真似はしない。それが今回に限っては様子が違う。
「課長、すみません。今回のは私が……!」
「小雪さん」
 進み出ようとする小雪の肘を、更に後ろからシンが引っ張った。ほとんど同時に、京も後ろ手にストップをかけていた。
「反論があるか」
「ありません」
「じゃあもういい。人事には俺からも言い訳しとくが、お前からも直接一報入れろ。いいな」
「了解しました」
「それから……桃山! 白姫!」
「はいっ」
 これも珍しく、金熊直々に説教だ。
「報告、連絡、相談。最も基本的で、最も重要なことだ。怠れば誰かの足を引っ張る。それで済まないこともある。保安課が何のためにバディで業務に当たるのか考えろ」
「はい。申し訳ありませんでした」
「……気持ち悪いな、全員そろって聞き分けが良いと」
金熊は肩眉をあげて、仕方なさそうに笑った。
「三人とも分かったらもういいぞ。報告書だけは早めにあげてくれ。……それから、鬼ヶ島教諭の件はごくろうさん。校長から詫びと礼の電話があったから、そっちも後日フォローしといてくれ。浦島、たのむぞ」
 京は短く返事をすると、一礼して踵を返した。億劫になる前に人事に連絡を入れておこうと思った。その途中思い出したように振り返る。
「あ、課長」
「……なんだ、もういいぞ」
「いや、ちなみに俺の昇進試験の方はどうなるんですかね」
 避難先の給湯室から、湯のみを持ってデスクに戻ろうとしていた荒木が慌ててまた引き返した。後に続こうとしていた城戸の背中を押す。それは総じて正しい判断だった。
「ヴゥァッカ野郎! 面接ぶっちぎっといてどの口が言ってんだっ! だいたいなぁ、お前の筆記の結果もひどいもんだったぞ! 金熊さんはどういう意図があって彼を推薦するんですかなんて嫌味まで言われて──」
「すいません、聞いた俺が馬鹿でした」
今度は機敏に踵を返す。金熊はまだ何か言い足りないようだったが、怒鳴り疲れたのも確かで、眉間にしわを凝縮したまま大きく嘆息するとどっかりと腰を下ろした。トラブルトリオがそろって保安課を後にしたのを確認して、在室組がようやく自分のデスクに帰還する。金熊の机には、みちるが淹れたあたたかい緑茶が置かれた。
 京が間もなく人事の担当者に電話を入れると、思っていた以上の嫌味のフルコースが振舞われた。金熊に言い足りなかった分まで追加されたと思われる、そのすべてにぺこぺこと頭を下げては決まり文句のように申し訳ありませんを繰り返した。通話状態のまま社内をさまよった結果、最終的には食堂横、ラウンジの長椅子に腰を落ち着けた。座ってもなお、返事と謝罪を十回以上は繰り返した。途中からは直接今回の件には関係なさそうな愚痴まで持ちだされたが、それも黙って聞く。
「はい……はい、もうそれは重々承知しております。いえ……はい、おっしゃる通りで……」
 しどろもどろに返していると終業時刻になった。マシンガンのように次々と終わりなく発射されていた嫌味が途端に止む。
『そういうわけだから。金熊課長にもね、またうちから連絡がいくと思いますから。とにかく、今回の件はそういうことで』
「はい。本当に申し訳ありませんでした」
京が言い終わる前に電話は切られた。ケイタイを閉じて、溜息ついでにがっくりと肩を落とす。悠に三十分は話していただろうか、時計を見ようと顔を上げた先に白い手と、それに握られた見慣れた緑色の缶があった。
「さすが小雪ちゃん。心得てるね」
小雪から「高級緑茶しのぶ」を受け取りながら、京は覇気の無い笑みをこぼした。
「……ごめんなさい」
「? なに、どうしたの」
 プルタブを開けると同時に今度は眉をあげて笑いをこぼした。対照的に、小雪は立ったまま深刻そうな顔を晒している。
「あの電話の対応は……無かったと思う。反省してる」
「まさかそれですっ飛んできちゃうなんて! ってね。報告云々は課長から言われた通りで、俺が補足するようなことは特にないよ。つまり小雪が謝る必要はないってこと」
「でも昇進試験……」
「……自分で言うのもむなしいけど、もともと受かるはずのないものを受けようとしてたわけだからな」
 そうだ、寿司──乙女への詫びと礼はそれで足りるだろうか。彼女が今回の話を聞いたら、課長の説教より、人事課の嫌味より壮絶な罵詈雑言を吐かれるに違いない。特上、ウニ丼も付けよう。

Page Top