SAVE: 08 保安ダイナマイト・パニック


 京の朦朧とした意識にもそれは鮮明に響く。何を思ったか余力を振り絞って、少年の眼球を覗き込んだ。金熊が仕方なさそうに受話器をあげるのをだけを映し出しているその瞳、ブレイクスプラウト特有の濁りは無い。ただどことなく淀んでいるように見える。京はその目に、どこかで出会っているような気がした。反抗期真っ只中の中学生スプラウトだったか──違う。5年間付き合った彼女の二股が判明した友人だったか──それも違う。
 熱で記憶が混乱しているのだろうか。と、諦めてうなだれた瞬間にすべてが繋がった。
「由衣子ちゃんの、恋人か」
京が掠れた声でつぶやく。少年は目をむいた。おそらくもう一人、少なからず反応を見せた奴がいるはずだ。京の体勢では確認できないが、答えはその当人からすぐさま示された。
「ユイコって、天野由衣子?」
半音上がった乙女の声。そうそう、そんな苗字だった。結構昔のセイブ対象なのに、よく瞬時にフルネームなんか出てくるな、などと感心してみる。
「天野由衣子の恋人って、確か……ええと、穂高。穂高、央太」
 京もさすがに名前までは覚えていなかったが、乙女は少し記憶を漁るとそういった細かな情報まで取り出せるようだった。彼女の脳内は常に整理整頓が行き届いている。それは法務課の、乙女のデスクを見れば皆が納得することだ。
「聞き覚えがあるな、その名前」
「待った。僕知りません。絶対無関係です」
金熊の目配りに荒木と城戸が銘々頷くのに対し、シンが相変わらず知らぬ存ぜぬを高らかに宣言する。小雪も何となく乗せられて、小さく手を挙げた。
「天野由衣子は、昔、私と京がセイブしたブレイクスプラウトです。末期一歩手前だったため、アイの大部分を削ってのリバイバル治療を選択しました。手術は成功していますし、ご家族からその後問題があったようにも聞いておりません」
乙女は報告書を読み上げるように、ごくごく簡潔に説明した。私見を加えず、事実だけを述べたつもりだったが、少年──央太の目には淀みに加えて憎悪が宿った。
「……は? 成功した? 何言ってんだよ、あんた。なんでそんな嘘が、平気でつけるんだよ」
「嘘とは心外ね。天野由衣子の手術が成功したことはきちんと報告書としてもあがっているし、私自身も術後彼女に会って確認していることよ。ご家族とも──」
「そうじゃないだろ!? 何だよ、何なんだよあんた……! 成功だ? 由衣子は俺のこと何一つ覚えてないんだぞ! 何もかも忘れて、あいつはあいつでなくなった! それなのに何が成功なんだよっ!」
「『何なの』っていう問はそっくりそのまま返してあげるわ。不躾にもほどがあるでしょ、キミ。『何が成功か』っていう問は、そうね。きちんとした定義があるから教えてさしあげましょうか? まず第一に、対象の生命が脅かされることがなかったという点と──」
「うるっせえんだよ!」
央太はナイフを握り締めたまま、その拳を開け放したままの扉に打ち付けた。怒声と激しい音に乙女は一旦口をつぐんだが、それも仕方なくといったふうだ。小さく肩を竦めてみせた。
「第二に、ブレイクしているアイ細胞を残らず切除できたという点。そして最後に、順調に正常なアイ細胞のリバイバルが始まったという点。以上の観点で言えば、天野由衣子の手術は間違いなく大成功の部類よ」
「あんた本当にクズみたいな人間なんだな。それとも詐欺師か。言ったよな、そうだ、あれはあんただった。由衣子の手術の前に、あんたが俺に言ったんだ。思い出はそんなにヤワはじゃないって。だから大丈夫だって。……今思えば、そんなもん何の根拠にもならないのに」
 央太は自嘲して笑い始めた。堰を切ったようにあふれ出した激情を、彼自身が制御できていないようにも見えた。それほどに彼は幼く、弱く、危うかった。乙女の、人をくったような態度が央太の敏感な感情を常に刺激していた。
「お前らみたいな詐欺師は、死んで当然だ。選択肢があるだけありがたいだろ、由衣子にはそれすらなかったんだから」
「な~るほどね~……。つまりは、由衣子ちゃんをセイブした俺たちセイバーズを逆恨みってわけか」
ほぼ屍骸だと思われていた京が身も蓋も無い見解を口にする。計算なのか誤算なのか、いずれにせよそれは央太の怨恨の火に油を注ぐ結果になった。
「何が"セイバーズ"だ、お前らがやっているのはスプラウト狩りだ! 返せよっ! 死んで返せ! 俺と由衣子から奪ったもの全部!」
央太は今一度、ナイフを握った右手に力を入れ京のこめかみに突きつけた。怒りと悲しみ、そして矛先の定まらない憎しみが彼の手元を振るわせる。刃先がちらちらと皮膚にあたり、京は気を失うことも許されなかった。
 それから数分、膠着状態が続く。京ができたのは一日の回想くらいで、それもたった今、身動きの取れない現状と重なった。うららかな昼下がり、発熱によるある意味心地よい倦怠感、それらを切り裂いた一本の電話、そしてこのこめかみを刺激する痛み。
 膠着状態を破ったのは、結局乙女の深い嘆息であった。
「末期段階のブレイクスプラウトが最終的にどうなるのか、教えてあげましょうか」
口調は先刻からぶれない。高圧的で挑発的のままだ。
「アイの悪性細胞が広がり、奇行、自制心喪失、発狂、最終段階として肉体の腐敗が始まる。こうなるともう手が付けられないわね。だから『人類の枠組』から除外される。私たちセイバーズにも、警察組織にも殺処分命令が出されることになる。それすらかいくぐって動けるまで動いてアイの機能が完全停止したとしましょうか。人形のようになるって言えば綺麗に聞こえるけど、実際は腐った汚い、肉塊になるだけ。……私たちセイバーズは絶対にその段階を阻止しなければならない。私たちがセイブするのは、スプラウトの命と尊厳だからよ」
 ここにいる者で、ブレイクスプラウトの末路を知らない者はいない。央太に関してもそれは言えることであったが、乙女の言葉は言うまでもなく彼に向けられたものだった。知識として知っているのと、体験して知っているのとは違う。心が、身体が、五感の全てがそのおぞましさを知っている。乙女は暗にそれを伝えたかったのだろうか。
 知識として知っているに留まる小雪は、そんなことを思い彼女の目を見た。
「だから、何? ねえ、あんた俺の言ったこと聞いてた? あんたたちはさぁ、結局、自分たちを正当化したいだけなんだろ? 保身っていうの? セイバーズって、守ってんのはお前ら自身だけじゃねえか」
央太の意識のほとんどは乙女に向けられていた。隙をついて形勢逆転をはかるならおそらく今が絶好の機会だったろう。しかしそれをするには、単純であると同時に深刻な問題が発生していた。
 央太の懐に飛び込んで、安全かつ迅速に京を救出するという所業ができるのは、立ち位置や能力を考慮すると、おそらくシンか小雪のいずれかである。そのシンは、隙をつくとかつかないとかのレベルで物事を既に考えていないし──どうでもいいから早く終わってほしいと顔に書いてある──小雪はと言えば、そろそろ『緒』の強度が限界を迎えている。それもやはり顔に書いてあった。ちなみに何の緒かといえば、
「黙って聞いてれば、屁理屈ばっかりいけしゃあしゃあと……」
張り詰めた堪忍袋の、ふるえる緒よ。
「何なのよ! 社長が死ねばとか、セイバーズがなくなればとか、本気で思ってるわけ!? あんたがやってることはねぇ! 好きなお菓子が買ってもらえなくて、スーパーの自動ドアの前で転がりまわってる駄々っ子と同じよ!」
 皆うろこが落ちたように小雪を見た。何なんだ、具体的すぎる。皆が皆、否応なしにその光景を思い浮かべてしまった。格安スーパーのレジ横、自動ドアの前で泣き喚く子ども、開いては閉まり閉まっては開くお粗末な自動ドア、狼狽する母、苦笑するエキストラたち。
「確かに。小雪さん、ナイス比喩」
一通り想像して、納得した表情のシン。
「いや、でもさ。その天野さんの記憶とお菓子が同等に扱われてるってのはあんまりなんじゃないかな……」
ごくごく真剣に、央太を気遣う城戸。

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