不毛なやりとりに嫌気がさしたのか、宇崎が早々に身を引いた。金熊は、安堵か決意か、ひとつ大きく嘆息して短い黙想をした。
「わかってますよ、私も長年この組織でやってきた人間ですから」
スーツの襟からセイバーズバッジを外し、机上に転がした。この光景をまざまざと見せられた荒木とみちるは、固唾をのんで見守るほかない。あの部下にして、この上司ありだ。
「私の首ひとつで、まぁ何とかなるレベルでしょう。そういうわけで、たった今からあんたの口出しは一切受けん」
荒木に、今後の身の振り方を考える猶予は与えられなかった。かわいい二人の子どもたちの笑顔を思い浮かべることも、美しくも恐ろしい妻への言い訳を考えることも後回しだ。全ての疲労を凝縮させた溜息を床に向かって吐いた。
「荒木! 城戸とシンに状況確認してすぐ樫ノ屋に向かわせろ、っと、拳銃携帯許可を出す。一旦呼び戻せっ。それから青山くん、システム課に応援要請。機材とセットで動ける奴を廻してもらって白姫くんのアイ反応を探索させてくれ」
荒木は諦めたように、みちるはふっきれたように、それぞれ了承して動きだす。金熊本人は目の前の受話器をとって慣れた手つきで内線番号を押した。
「金熊だ。辰宮くん、支給ヘリを手配してほしい。柳下たちを乗せて樫ノ屋に飛んでくれ。付随する連絡は君に任せてかまわんか」
水を得た魚のように、あるいはモノクロ写真に色を添えたように、金熊率いる保安課が息を吹き返す。その息吹は課の垣根を超え、システム課、法務課、普段は三階のセキュリティドアの向こうから一歩も出てこないオペレーション課まで突き動かす。
「駄目だ駄目だ! 直行するな、拳銃携帯許可が出てるから一度こっちに……ああ! ちょっとそこの! モニターは一台でかいやつに取っ替えてっ」
携帯片手に廊下を猛スピードで突き進みながら、荒木が目に着いたシステム課に指示を出す。オペレーション課の精鋭を動員してきたみちるも、機器の接続(手慣れたものだ)から状況説明まで完璧にこなした。
「宇崎部長」
本社の職員たちを引き連れてエレベーターホールに向かう宇崎を、金熊が呼びとめた。
「本社に戻り、桜井殺害の件に当たる。……この件の君たちの処分は後日、事が済んでからだ」
「はっ、ありがとうございます」
閉まるエレベーターの扉に向かって、金熊は深々と敬礼した。扉が閉まりきっても暫くの間その態勢を保つ。それから思いだしたように作戦本部に戻り、デスクに転がしたままだったセイバーズバッジをつまむといそいそとスーツの襟につけ直した。
「課長ー! 城戸とシンが戻りましたっ」
「今行く! そのまま銃器庫に行かせろ!」
指揮を執るのにセイバーズバッジ無しというわけにはいかないだろう、金熊は声を張りながら胸中で苦笑した。これが最後の指揮になるのかもしれない、それでも一向に構わないと思った。
「いいか皆! 全力セイブだ! 何が何でも白姫君を救出し必ずここへ連れ帰る。藤和支社……スプラウトセイバーズの誇りに懸けて!」
皆各々の作業をしながらも、腹の底から了解の声を張り上げた。セイバーズの職員、とりわけ藤和支社の職員は多かれ少なかれこの手の展開が好きだ。ドラマや映画さながらに、ピンチやクライマックスに一致団結する仲間たち──大抵のフィクションはここからハッピーエンドに向かう。それを現実にできるか否かは、彼らの力量と運にかかっている気がした。
──靴音が二つ鳴り響く。ひとつは自分の歩調に合わせて無遠慮に、もうひとつはそのリズムをかき乱すように強く、激しく、コンクリートの床にたたきつけられた。暑くもないのに滝のように汗が流れる。そして寒くもないのに悪寒が止まらなかった。
小雪は走っていた。追ってくる足音は、自分のそれよりもはるかに間隔が長いのに距離は広がるどころか縮まる一方のような気がする。しきりに振り返っては後方を確認した、刹那。
(何で……!)
驚愕のあまり声すら出なかった。振り返った先に、黒いサングラス、そしてそれよりも一層黒く光る銃口があった。小雪は黙ったまま立ち止まった。
「無駄に入り組んだ造りもこういうときは役に立つな。最小限の労力で確実に獲物を追い詰めることができる」
「こんな風に、か?」
聞き慣れた声がした。それは同時に、この場で絶対に聞くはずのない声だった。小雪に銃口を向けたサングラスの男、そこへ更に後方から銃の照準を定める見慣れた背格好の男がいる。寝癖頭にしわの残ったスーツ、使い古したネクタイをだらしなく結んだいつも通りの風貌。視線だけがぶれることなくサングラスの男を捉えていた。
小雪はやはり声を出せずにいた。疑問符ばかりが浮かんでは消えていったが、彼の姿を目に入れて急速に足の力が抜けていったのは確かだった。
「セイバーズか」
サングラスの男は振り替えることなく、小雪に銃口を向けたまま淡々と口にした。
「だったらどうする」
「……どう、ねぇ。どうもしないな、予定通りだ」
男は余った左手でサングラスを押し上げた。こみ上げてくる笑いを隠そうとしたのだが、結局それは指の隙間から覗いてしまった。
会話はたったそれきりで終わる。鉄筋造りの廊下に銃声が響いた。
「京っ!」
反響する銃声に小雪の声が重なる。先に引き金を引いたのは京の方だった。その一発は男と小雪の傍らを通り過ぎ、どこか遠くの壁にめりこんだようだった。
「小雪! 脇に飛べ!」
京の表情は見えない。確認する前に小雪は言われたとおり右後方の通路へ転がり込んだ。視界に映ったのはサングラスの男が連射する後ろ姿で、それよりも鮮明に何発もの銃声が鼓膜を支配した。
花火のクライマックスのようだった。美しさとは無縁、轟音と煙だけのまやかしの花火。
通路は先まで伸びていた。おそらはくこの道を突き進むのが正しい、そう理解はしていたが実行に移すには至らなかった。一度走ることをやめた足は、恐怖と緊張でほとんど力が入らない。小雪は壁に体重を預けて、かろうじて立っている状態だった。
パリンッ── その軽快な音を最後に、銃声は止んだ。かと思うと、小雪の足元に何かが滑るように転がってきた。片方の蔓とレンズの無くなったロイド型サングラス、死体が転がってきたわけでもないのに壁沿いに思わず後ずさった。
「あーらら、またこんなところで立ち往生しちゃって~……」
今度はすぐ近くで、場違いなほどのんびりした声が聞こえた。この声を聞くだけで、とにかくいろんな真面目物質が片っ端からどこかへ素っ飛んでいく。やる気だとか熱意だとか真剣みだとか、緊張感だとか恐怖だとかどうしようもない不安だとか、そういうものがまとめて全部ふにゃふにゃに柔らかくなって消えていってしまう。
しかしまるっきりいつもと同じというわけにはいかなかった。見上げた先の京の表情は格段に険しい。彼は銃を構えたまま、元居た廊下を睨みつけていた。
「困るな。オーダーメードなんだ、造り直すには時間がかかる」
男は独りごちながら、サングラスの折れた蔓を拾い上げた。ひどくゆったりとした動作で上半身を起こすと、おどけたように顔の横で蔓を弄んでみせた。その目が虹色の光彩を放つ。指先でくるくると蔓を回すと、それに合わせるようにそのアイはきらきらと宝石のように光った。サングラスの下に潜んでいたのは、ダイヤモンドよりも繊細に輝き、世界でもっとも美しいとされる『プリズム・アイ』。
京は息を呑んだ。プリズム・アイのまばゆさに見惚れているわけではない。むしろその逆で今目の前にあるプリズムほど、おぞましく輝くものを京は未だ嘗て目にしたことが無かった。否、それもいささか正しくない。
京は知っていた。この男のサングラスの下を。見え隠れする額の銃痕を。この忘れ難い、「人」とはかけ離れた感情を携えた笑みを。