「小雪、次俺が撃ったら奥に向かって全力で走れ。走れるよな?」
視線だけをちらりと小雪の方へ向けた。いつもの歯切れの良い応答が返ってこない。
「奥に走って……どうするの。それに、京、あなた──」
「さーあ、どうしようかね。今回は“しのぶ”も仕込んでこなかったしな」
フェアリーランドで緑茶の缶が銃弾をはじいた件を言っているのだろう。あれは偶然に偶然が重なった上に奇蹟がトッピングされた、言うなればミラクルのミルフィーユ現象だったわけで、今それを持ちだされても全く以て笑えない。更に間の悪いことに、笑えない状況に拍車をかけているのは京のつまらない冗談だけではなかった。
京は左手で腹を抱えていた。何の面白いことがあったわけでもなく、実際として腹部を抱え込んでいた。そこにいつの間にか大きなシミができている。薄暗い照明の下、ダークグレーのスーツのジャケットでも、そのシミは異質過ぎてはっきりと見て取れた。そのシミから何かの滴が派手に音をたてて床に落ちた。それはどうしようもなく、はっきりと赤かった。
「まぁ、おいおい考えるからさ。とりあえず、行って」
数秒待っても、やはり返事はなかった。しかしここで、小雪に向き直って説得するような状況にはない。残念なことに男の射撃技術は京のそれよりはるかに卓越していた。日常的に撃っているのかもしれない、だとしたら重大事件が起こって、あれやこれや論議されて、許可が出て、ようやく銃を携帯できるセイバーズ平社員とのテクニックが雲泥の差であったとしても仕方がないではないか! などと自分を慰めながらも京は様々なことに気を配らねばならず、苛立ちを隠せなかった。
(あの野郎、明らかにアイを狙ってきたよな)
「大変だねぇ……お宅らも。スプラウトでありながら同じスプラウトの尻ぬぐいが仕事なんて、尊敬するよ。俺には無理だ」
京の疑問はすぐさま解消された。男はこちらがセイバーズである以前に、スプラウトであることに気づいている。焦燥が一気に限界まで達した。御世辞にも熟達しているとは言い難い自分の射撃で、奴のアイを撃ち抜けるとは思えない。しくじれば次に撃ち抜かれるのは自分のアイだ。
「小雪! いいな、走れよ!」
片手撃ちなんかくそくらえ──自分の血液がべっとり付着した左手を、きちんと銃身に添えた。一瞬だけ、コンマ一秒の間だけ“画的には片手撃ちの方がかっこいいんじゃないか”だとかの考えがよぎったが迷う間もなく没案とした。
トリガーを引く。腹が痛む。反動で座りこみたくなる。そうしてよろけたおかげで飛んできた弾丸の直撃はまぬがれた。鼓膜が馬鹿になったらしい、銃声がこもって聞こえる。その代わりとばかりに自分の呼吸が体の芯まで響き渡った。無声映画、モノクローム、スローモーション、主人公は自分のはずだがどうにも現実味のない空間だ。
「アくウンの勝利か。弾切レだ」
強弱ばらばらの男の声に、一定の大音量で荒らいだ自分の息を吐く音が重なる。男は何の未練もなく踵を返した。京が思うのはただひとつ、今、ここで大の字に倒れ込んで大丈夫だろうか。思った時には腰からくずれていた。
「京!」
ひどく遠くから、おそらく小雪だろう金切り声が鳴った。声は遠かったのに次の瞬間には彼女に支えられて立っている自分がいた。そしてもうひとつ、小雪よりも数倍ヒステリックな声が大音量で割って入って来た。
「ウルフ! 何なのっ! なんでここで銃なんか……っ」
イカレタ鼓膜にハイヒールの音はきつい。頭に直接五寸釘でも打ち込まれているかのようなインパクトだ。麻宮法香が文字通り血相を変えて走ってきた。
「よく言うな。あんたが連れてきた客だろう」
「私!? 警察、違うセイバーズ……? そんな……ちょ、ちょっと! どうしてほっとくのよ! まずいでしょう!?」
「問題はない。さっきもそう言ったはずだ」
蠅でもあしらうように男は麻宮に見向きもせず、足早にその場を後にした。麻宮ひとりが、そんな彼とこちらとを交互に見やって狼狽している。その落ち着きの無い足音もそう経たないうちに小さくなり、消え去った。
「……小雪、一旦奥に進もう。廃棄薬品かなんかの倉庫みたいな部屋がある」
「脱出するんじゃないの……?」
「そうしたいのは山々なんだけど立ってるのがいっぱいいっぱいでね~……。課長がカンパニーで指揮を執ってる、大人しく救助を待とう。いや~ほんと、助けに来といてこのザマで申し訳ない」
「申し訳なくなんか……ないけど」
小雪はいたたまれなくなって俯いた。口調だけ、いつも通りを演出しようとする京が気持ち悪さや怒りを通り越して哀しかった。
小雪以上に京は俯いていた。出来る限り、小雪の顔を見ないように意図的に努めた。そのことに彼女は気付いている、おそらく理由を模索しているのだろう。──これはばれると、厄介なことになるかもしれない。
「通路の右奥、だな。連中が補弾して追いかけてくる可能性もないでもないけど、今はジタバタしない方がいい」
「京、あの……」
「あ、小雪ちゃん。あんまりくっついてると血つくよ。クリーニング代すっげー高いからね、これ」
「ねえ。聞いて」
情けないことに、ほぼ完全に小雪に支えられて歩いている今の状態では、彼女に立ち止まられるとそれに従わねばならない。
「アイを、撃たれてるよね。さっきの奴に」
さあ、どのカードを切るか。考える前に思わず顔をあげてしまった。
「めずらしく……直球できたね。撃たれてないよ、かすっただけ」
左目が開かないのは、その「かすった」箇所に血液が溜まっているせいだ。小雪は不服そうに眉を潜めた。うさんくさく笑顔を作ったのがお気に召さなかったのかもしれない、しかし笑顔が胡散臭いのは元からで、生まれついた顔というやつで、つまりはどうしようもない。その渾身のスマイルが功を奏したかは怪しいが、結果としてそれ以上の小雪の追及はなかった。
案内した先のやたらに厳重な分厚い扉を開くと、倉庫の名にふさわしい大量の段ボールが天井近くまでうずたかく積み上げられていた。照明はないが、非常口の看板の灯りがまだ生きていた。その緑色の光が薄ぼんやりと周囲を照らしてくれる。
京は小雪の支えから一旦離れてよろよろと歩を進めると、一番背丈の小さい段ボールの塔を思いきり蹴りつけた。憂さ晴らしのためではない。軽快に崩れるその中から、ぎっしりどっさり大量に点眼液のサンプルめいたものがなだれを起こして床を埋め尽くした。
小雪がおもむろにしゃがみこんで、その一つ手に取った。
「何これ……B、L、O、O、M……ブルーム……?」
親指サイズの簡易容器に書かれた文字をなぞるように読む。その間も京は次々と段ボールタワーを崩しては中身をぶちまけていた。出てくるのは小雪の指につままれているものと同じ、点眼液もどきばかりだ。
「はい証拠品押収~。ここまで大量に溜めこんでどう処分するつもりだったのかねー狩野は」
「じゃ、これって──」
「例の、スプラウトを意図的にブレイクさせるドラッグ。通称“BLOOM”。……飲むでも打つでもなく、直接アイに落とすみたいだな」
そこまでを淡々と述べて、京は手ごろな段ボールタワーを背に座りこんだ。深く長い嘆息をした後、休むのかと思いきやせっせと銃の補弾を始める。
「小雪」
補弾が終わるとしっかりとロックをかけて、京から少し離れた位置で所在なくしていた小雪に向かって軽く放った。
「三十分経ってもシンたちが来なかったら、こっから先はひとりでやれるよな」
小雪の思考が刹那、停止した。手元に転がり込んできた血糊付の銃に視線を落とし、すぐに京本人を見直した。彼が今、いつものように笑わない理由を急いで考えなければならない。そのはずが、得体のしれない焦燥が邪魔をして思考回路がうまく回らない。
「何、言ってんの…?」