小雪が言いたいのは形式的なそれではない。この男が足しげく通うには、この「赤りんご」というカフェはいささか不似合いだ。それは自分たちにも言えたことだったが、彼らには目的がある。同じ原理で言えば、このロイド型サングラスの男にも何か理由がありそうだ。賑わう店内でたった独り、メニューの中からは探さなければ見当たらないようなブラックコーヒーを注文して、窓を凝視する理由が。
(窓──……)
ガラスには、店内の様子が隅から隅まで反射している。会計を済ませて店員に見送られるカップル、パフェをつつきながらモバイルいじりに没頭する女性三人組、食事の前に既に一服を済ませようと灰皿を引き寄せる営業マン、そして訝しげな表情を浮かべて窓ガラスを覗き込むスプラウトセイバーズの若い男と女。
窓ガラスの中の世界で視線が合った。サングラスの奥で、その「目」は確かに京を捉えていた。
ガタッ! ──和みと癒しの空間に、椅子を蹴る音はひどく異質なものとして響き渡った。京ではない。確かに彼はそうしようと腰を浮かせていたところだったが、それよりも早く、例のカウンター隅の男が立ち上がっていた。談笑を交わしていた客の注意を一気にひく。
「うわああああああ! なんでだよぉぉぉ! 出ろよ! 出ろぉ!」
スマートフォンを握りしめたままの拳をカウンターに打ち付ける。凄まじいまでのタップだ、などと悠長に構えている場合ではなさそうだ。
「頭がイテェっ! 嫌ダぁぁ、イやだァ! アアアァァァァアア!」
男は奇声を発しながら、舞台役者のように頭を抱えて体ごと左右に振りまわした。かと思えば一昔前の芸術家のように頭髪を掻きむしりだす。彼の発する声は、悲鳴というよりもはや断末魔に近い。それが周囲に与えるのはもはや緊迫感ではなく、ある種の好奇心だった。
「ウワアアアア、痛えええ! 痛ぇよおおお!」
男の一人舞台は早くもクライマックスを迎えていた。眼球を、躊躇なく両手で押さえこむ。取り出そうとでもいうのか、中指の第一関節がすっぽり埋まるほどに瞼の隙間から指を食いこませていた。
「き……きゃあああああ!」
「うわー! 何だ、救急車呼べ! 救急車!」
ここでようやく真っ当な悲鳴が上がる。皆、我先にと席を立ち、苦しみもがく男と距離を取った。そんな中で、京と小雪だけが真逆の行動をとる。床にうずくまって絶叫し続ける男に駆け寄った。
「おい、あんた……! 小雪! 両手押さえてっ」
小雪は返事の前に迅速に行動に移してくれる。しかし小雪の全体重をかけても男の動きを完全に封じることはできず、結局京が男に馬乗りになる形で無理やり床に押さえつけるしかなかった。
「京っ、ちょっと、何するつもり」
「手、離すなよ……! は~い! ちょっとお兄さん、おめめ見せてね~!」
口調は子どもをあやすようだが、京はほとんど全力で男の首をねじってその眼球を覗き込んだ。白眼は血走った上、涙とも血ともつかない赤色の液体にうずもれている。まるで焦点の定まらない黒眼──アイ細胞は、時折生き物のように赤い海の中でうごめいた。その場所を棲み処に無尽蔵に増えるアメーバのようでもあったし、息を殺して夜を待つ吸血蝙蝠のようでもあった。
京は息を呑んだ。ひとつだけ確かなことがある。
「小雪、カンパニーに連絡してシステム課の誰か応援に呼んで。こいつ、このままじゃやばいぞ」
「ブレイクしてるのよね……?」
「“ただの”ブレイクならいいけどな」
京はアイ細胞の確認を止め、男を抑え込むことに集中することにした。と、既に男に暴れまわる意思も体力も残っていないことに気づく。小雪に目で合図して、このまま三人ねじりパン状態から離脱するように指示した。
小雪は抜け出してすぐ、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出すと短縮ボタンを押した。遠巻きながらも分厚い壁となった野次馬連中に律儀に頭を下げながら店の隅に移動した。
「イテェよぉ……死にたくない……! シニタクナイよォオ!」
「心配すんな、すぐアイ細胞のスペシャリストが来るから。姿勢を楽にして目は閉じてろ」
ともすれば男は自らのアイをえぐり出そうとする。それを阻止すべく、両手だけはスーツの上着で縛らせてもらった。
(異常……だよな、この濁り方は)
考えられることはいくつかあったが、どうしたって件のドラッグの存在を勘ぐらずにはいられない。もしこれが、ブレイクを誘発するクスリの仕業だとしたら、事態は京たちが考えているよりも深刻かつ急速に展開しているのではなかろうか。そんなことを思っていると、ふと悪寒が走った。視線を上げて、小雪の姿を探した。
「何なに、ブレイクスプラウトってやつ?」
「うわー、マジだ。初めてみた。なんか、凄くない? ドラマみたい」
野次馬が増殖している。店内の客だけではない、このショッピングビルの上から下から、興味本位で集まった連中が人垣を作っていた。
「見て。動画撮ったー」
「あの人ってさー、あれ? セイバーズっての?」
「なんか結構やばくないかぁ」
「バグってるよな、完全に」
いろいろな人間の様々な声が頭上を飛び交っていた。ほとんどが好奇の目で、ごく一部に悪意てんこもりの侮蔑の眼差しが混じる。
久しぶりの、とてつもない不快感だ。不幸中の幸いだったのは、取り残されたのが自分で小雪でなかった点である。これが逆だったらもうひと悶着平気で起こっていたに違いない。胸をなでおろしながら、京はできるだけ考察に集中するよう心掛けた。そうすることである程度の騒音はシャットアウトできる。
「救急車って呼んでんの?」
──そう言えば。
「さあー、さっき女の人が電話してたっぽいけど」
──あの、ロイド型サングラスの男。
「ブレイクってさぁ、結局治らないんでしょ」
──とてもよく、知っている気がした。
京の全身の毛穴から、一気に汗が噴き出した。好き勝手に談笑を始めた烏合の衆を睨みつける。彼らを戒めるためではない。そして今度は小雪の姿を探すためでもなかった。
京の視線の先に、その男は立っていた。野次馬に溶け込んでいるようで独り明らかに異質な空気を纏っている。見えるはずのないサングラスの奥の瞳が、またも京のアイを射抜くように見つめている気がした。
「京っ。柳下主任がすぐこっちに来てくれるって! シンくんもすぐ合流できるみた──」
小雪の声が聞こえた、気がした。今、それはどうでも良いことのひとつだった。京は立ち上がると同時に群衆に向かって猛突進した。どよめきだか、罵倒だとかがまた聞こえた気がするが、どこか遠いところで鳴っている雑音のようでもあった。小雪の声が、野次馬の罵声が、絶えず鳴っていたモバイルカメラのシャッター音やスプラウトのうめき声でさえ、今は全て後回しで構わない。
サングラスの男は薄く笑みを浮かべて、何ら慌てることもなくひっそりと店を後にした。
「ちょっと京!」
野次馬をかき分ける。入り口に辿り着くころには標的の姿が見えなくなっていた。魔法のように消えたわけではないのだから、このビル内のどこかには居るはずだ。そうであるならば選択肢はひとつである。京は迷うことなく非常階段へ続く鉄扉を押し開けた。ほとんど飛び降りるようにして階下へ下る。