SAVE: 09 ア─Part.1─


 アイナンバー、下一ケタは7。どんなに勉強嫌いでも忘れようのない数字だ。あの男がスプラウトかどうかすら現段階では不確定要素のはずなのに、京は確信を持って走っていた。サングラスの奥にはアイが、世界で一番濁りきったプリズムアイがあるはずだ。
「そして額に銃痕」
 何故か頭の中に乙女の声で補足がなされた。昨夜と同じ、京の感情を諌めるような静かな声で。
 非常口、最後の扉を開け放した。搬入口の横、おそらく違法駐車であろうショッピングビルの職員の車が所せましと縦列駐車してある。京は一歩踏み出して路地に出ると、悪あがきとばかりに再び周囲を見回した。360度、見渡してもあるのは鎖のように連なった車だけだ。
 一日分をまとめたような疲労感が一気に京を襲う。大きく息をついた。今から九階分階段を駆け上がると思うと気が重い、踵を返してのろのろとエレベーターホールへ向かった。四角い箱が下ってくるのを待つ間、京はオータムセールのポスターに向かって懺悔するように頭から寄りかかった。
 どこかで携帯電話の着信を知らせるバイブレーションの音がする。それが、自分の尻からだと気付くのに数秒を要した。スーツの上着を手枷代わりにブレイクスプラウトに巻きつけたとき、咄嗟に尻ポケットに突っ込んできたのだ。おもむろに引き抜いて蓋を弾き開ける。表示された名前に特大の溜息が洩れた。


「そう……ですか。そんなところから監視を」
 狩野製薬の藤和事務所ビル、喫煙ブースの中で眉間のしわをほぐしながら桜井は一本目の煙草に火をつけた。携帯電話を左手に持ち替えて、右手ではゆらゆらと煙を立ち昇らせる細い棒をつまむ。ブースはエントランスフロアの中央に設置され、ガラスの間仕切りで外界から隔離されているだけだ。従って何をしているか一目瞭然、悪いことは何もできない。但し、密談をするにはうってつけだった。
「それでは予定通り、本日の受け渡しは中止ということで宜しいですね。それとも、本日を含め当面、と言った方がいいのか」
 灰皿に向けて一度、小気味よく灰を叩き落とす。綺麗なものだ。立派な分煙ブースを設置したものの、この数年で愛煙家は随分減った。
「他のお得意様ですか。そうだな……『先生』あたりは引き続き取引を続けることにします。通常の、医薬品のね。いきなり音沙汰なしじゃあ、いくらなんでも」
苦笑いのつもりが声が出た。ブースの外では、何も知らない歯車社員たちが何の面白味もない通常業務というやつに当たっている。昨日もそうだった。一週間前も、一か月前も、一年前もそうだった。そして一年前は自分もその中に溶けていた。
「専務、よろしいですか」
 ブースの扉が開いたかと思うと、落ち着いた低いトーンの女の声がした。イエスもノーもなく、女はさっさとエナメルブラックのシガレットポーチからライターを取り出す。
「ちょうど一緒になったので……彼女にも伝えておきます。今後の接触はお互い慎重に参りましょう。それでは」
通話終了と同時に吸いさしを灰皿の縁に押しつけた。
「当面の間“ブルーム”の取引は一部凍結だ。警察に加えてスプラウトセイバーズまで動き出したらしい。……俺も、君もマークされてるとか」
「なるほど道理で視線を感じるはずですね。売買ルート生成の矢面に立ったんだから当然と言えば当然ですが。今のはウルフからの情報?」
「そうだ。……麻宮くん、君も警戒を怠るな。俺たちはタイミングを見計らって手を引く、今が引き際かどうかはもう少し見極める時間がいるがな」
桜井は女の返事を待たずして、ブースの扉を引き開けた。外界の澄み渡った空気が、一瞬だけ扉の隙間を通じてブースの中へ吸い込まれていった。
 空気清浄機のおかげで、フロアには花粉もハウスダストも細菌も無い。とにかく不快を誘い健康を損なうものは片っ端から排除されている。桜井は小さく呼吸をし、小さく噎せた。自分が住むべきはこの潔癖な世界ではなく、白い煙の充満したあのブースの中である。そう思って、後ろ髪惹かれるように一瞬だけ肩越しに振り返った。


 着信は金熊の携帯電話からだった。命令に従い、小雪とシンを連れて帰社。「赤りんご」での一件をありのまま微細に報告すると、おそらくはこっぴどく説教される羽目になるだろう。ある程度は腹を決めて保安課の開けっぱなしのドアをくぐったはずだった。言いわけの手順と頭を下げるタイミングまで車の中でシュミレーションしていた。
 それらが完全に無駄骨に終わったことも含め、京は戸惑いと苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「君か。『赤りんご』で大立ち回りをしてくれたのは」
金熊の席の前に、小柄でどこか神経質そうな男が立っていた。堀が深い割に、頬と唇が極端に薄い。加えて、やりすぎだろうとつっこみたくなるくらいの完全完璧なオールバックヘア。それらが相乗効果をもたらして、その男の第一印象を完膚なきまでに嫌なものに変えていた。
「えーと……、そちらは」
「質問に答えろ。『赤りんご』でBをセイブしたのは君か、と訊いている」
 浮き出た。京の意思とは無関係に青筋が浮き出てしまった。素っ頓狂な声を上げなかったのは、この小柄な男の後方で金熊が青い顔をして何かしらの手旗信号を送ってきたからだ。手旗信号の意味するところは不明だが、いくつか理解できることはある。この男は、金熊よりも階級が上で、おそらくは本社の人間である。
「浦島、第二エリアを統括する宇崎保安部長だ。報告は後で聞くから、聞かれたことに簡潔に答えてくれ」
 金熊の補足により、京の推察がおおよそ当たっていたことが判る。宇崎功(うざき いさお)の名前には覚えがあった。と言っても、異例のスピード出世により頻繁に人事通達にその名が上がっていたせいで頭の片隅に残っていただけに過ぎない。
「……私です。搬送はシステム課に任せてきたのでまだ到着していないはずですが、何か問題でも」
 金熊が一度天を仰いで、より大ぶりに謎の手旗信号を繰り返す。反抗的な態度はやめろとでも言いたいのだろう。分かった分かった、それにしたってこの男の態度はあんまりではないのか。まずスーツのサイズが合っていないのが気になる。見たところワンサイズ下を買った方がいいと思われるのだが。
「何故あそこで、自分たちの身分が公になるような真似をした」
 京の質問は悉くスルーされるようだ。引きつる口元を何とか制し、京は喉元まで出かかった言葉のいくつかを飲み込んだ。そして改めて、その質問の異様さに混乱をきたす。
「いや、何故って言われても」
「このセイブにより、セイバーズが網を張っていることが狩野側に知れてしまった。狩野の情報は全体的に遮断され、警察側からも非難を浴びている。これが君の言う“問題”というレベルでないことは分かるか」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。現場の判断としては、間違ったことをしたつもりはありません。あれはどう見ても通常のブレイクじゃない、早急な対応が必要な状況でした」
「その正しいつもりの現場の判断とやらが、組織全体には最悪の結果しかもたらさなかった」
 宇崎の周囲、半径5メートル程が凍てつくのが分かった。空気が重いとはこういうときのことを言うのだ。誰もが押し黙る。宇崎の言うことは、あるレベルでは揺るぎない正論だ。
「いいか、この案件、運び方次第でセイバーズの存在そのものが世に問われることになる。その重要性を君たちは正しく理解できていない。だから今回のようなその場しのぎの行動で全体の足を引っ張る」

Page Top