SAVE: 09 ア─Part.1─


「……ブレイクスプラウトは、ほっておけと」
「優先順位を転換しろと言っている」
 京は記憶をまさぐった。つい今しがたの記憶だ、細部まで思い出せる。アイをえぐりださんばかりに押さえつけ、奇声をあげつづける長髪の男。その血と涙に埋もれながらうごめく、見たこともないほど異常なアイ。
(あの場のどれに優先順位をつけろって……?)
 自嘲の笑みが漏れた。特に顔を逸らしたわけでもないし、宇崎は先刻から京のみを視界に入れているから、それはもろに宇崎の把握するところになった。
「君は、現場での判断に大層な自信があるようだが……では聞こう。先ほど上がってきた報告には、Bを懐柔している最中、君は何者かを追跡するような形で現場を放棄したとある。この意図は何だ」
 京は目を剥いた。視界の隅では金熊が同じく目を剥いている、ということは彼はこの報告を受けていないということだ。宇崎に直接コンタクトをとれるような者は、保安課にはいない。だとすると、あの現場に本社の人間が紛れこんでいたのだろうか。考えても仕方ない、どのみちここまで含めて金熊には報告するつもりだった。
「それは、今回の件と直接関係ありません。別件の……いや、私の先走りです。申し訳ありません」
京は一拍置いて頭を下げた。
「で、あれば口応えしないで私の指示に従ってくれ。時間は限られている、一秒たりとも無駄にはできない」
 頭を下げたままの京の横を通り過ぎて、宇崎は保安課を出る。廊下を挟んだ向かい、通常は応接として使用している(つまりほとんど使用していない)部屋を会議室兼宇崎のデスクとしてこしらえたようだ。後を追う形で金熊も廊下を出る、直前に京に渋い表情を晒した。
「……本社は本社で何かまた掴んだみたいでな。今後のうちの陣頭指揮は宇崎部長が執ることになった。お前は頼むからこれ以上悪目立ちしてくれるな、いいなっ。それと──」
「わーかってますって。後で報告します、もともとそのつもりでしたっ」
 息を荒げる金熊をなだめすかして、その背中をぐいぐいと廊下に押し出した。半ば無理やりに金熊を見送り、面倒事はうまく片付いたかのように見えた。
 にこやかに振った手、その腕を小雪に鷲掴みにされる。
「京、ちょっと」
 できればここは、スーツの背だとか肘部分だとかをちょっと摘まむという行為に変更できないものだろうか。これではまるで痴漢の容疑者と勇敢な女刑事の取物ではないか。などと残念がっている間に、京はあれよあれよとエレベーター前まで連行された。展開としては、こういう強引なのも悪くはない。
「どーしたの小雪ちゃん。今日はやけに積極的……」
「赤りんごの。説明してよ、何、別件って」
 金熊とは違ってこちらは手ごわそうだ。直球、それもかなりの剛速球をいきなり投げてきた。望み通りというか期待通りというか、小雪は上目遣いを決め込んでくれたが思っているのと随分違う。今の小雪は、視線だけで数人射殺せそうだ。
「怒ってる……?」
「怒ってない。説明してほしいだけ。あのとき誰を追ったの?」
(いや、怒ってるでしょ。明らかに)
 京がサングラスの男を追った際、ブレイクスプラウトと小雪はその場に放置された。それにも関わらず、システム課や応援のシンが到着しても戻らない京を適当にフォローしてくれたのは彼女だ。そんな小雪に伝えたのは、金熊からの帰社命令だけ。
 京は無意識に後頭部を掻いた。
「別件の……重要参考人に似た奴を見かけたんだよ。今回の件とは関係がない」
 小雪は、京のその小さな仕草を見逃さなかった。彼はおそらく今、困っている。この場をどう切り抜けようか、つまりどう誤魔化そうかを悩んでいる。それが分かってしまうから、余計に腹立たしかった。
「……別件、って。あのときあの場に居た人物なら、関係ないとは言い切れないじゃない」
「関係ないよ」
それだけを、京はやけにきっぱり言い捨てた。小雪が言葉を詰まらせる。京もやはり、その一瞬を見逃さなかった。切りあげるなら今だ。
「悪い、この話はまた今度にしよう。今は狩野が優先事項だろ? 宇崎部長殿のご機嫌もこれ以上傾けるとまずそうだしな」
そのご機嫌とやらを傾けた張本人が少しも悪びれず笑う。小雪は頷かなかった。
 関係ないよ──小雪には── そう言われた気がした。気付かない程度に、しかし強固に壁を作られた気がした。否、おそらくその壁は、常に二人の間にあったものだった。そしてそれは常に、京が作っていたものだった。
 小雪は、廊下の少し先で待つ京を追いこして会議室の扉を開けた。ロの字型に組まれた長机、上座に当たる奥の席に宇崎一人が陣取っている。金熊は荒木・城戸組と同じ辺に座っていた。彼らの向かいの席、入り口にほど近いところにシンが座っている。手招きされて、小雪は静かに腰を下ろした。空気を読むやら読まないやら京が最後に入室、軽く会釈して入り口付近の席に落ちついた。
「今後は監視のターゲットを絞る。主犯格と見なされる狩野製薬の専務、桜井誉。社長秘書、麻宮法香。それから最重要顧客のひとりであるK大大学病院教授、根津幹也及びその周辺。以上を徹底追跡する」
 会議ははじまりの号令どころか合図さえなく唐突に始められた。保安課一同には顔を見合わせている猶予も与えられない、宇崎は蛇のような視線で皆を牽制していた。
「藤和支社は狩野側を担当することになる。本社保安課から派遣される人員の補佐として動いてもらう。道案内と連絡役に努めてくれればいい」
《つまりパシリ》
シンが資料の端に走り書きするのを京は見逃さなかった。折りたたみテーブルの下でシンの膝を小突く。といった一連の動きが、向かいの席の金熊や荒木には丸見えだったりしたが、幸い宇崎の眼には入らなかったようだ。彼は確認をとることもなく機械のように淡々と説明を続ける。
「桜井誉の監視組には城戸、桃山。麻宮法香の監視組には白姫。残りはここに待機し必要な資料、情報の整理と作成を行ってもらう」
《つまり雑用?》
 京が立ちあがった。シンの走り書きを咎めるためでは、無論ない。向かいの席に陣取っている穏健派が目を白黒させていた。
「白姫は……まだ無理です。俺と桃山のバディに就いて仕事を教えています」
「問題ない。本社のサポートだ、道案内ができないわけじゃないだろう」
 視界の隅で金熊と荒木がウェーブをしていた。しかも必死の形相で。おそらくそれは「座れ!」の合図なのだろうが、京は一瞥しただけで彼らを視界の外に追い出した。
「『本社のサポート』が道案内で終わった試しがないから言ってるんです」
 京の視界の外では、やはり金熊と荒木が息の合わないパントマイムを繰り広げていた。銘銘頭を抱えているところだけは一致しているが、金熊は机上に突っ伏、荒木は歯を食いしばって天井を見た。ちなみに二人と同じ机に並んでいる城戸は、他人行儀に目を伏せていた。
「こちらの指示通りに動け、という命令がそこまで難解か? 人選は適当だ、君のようにいちいち下手な判断をしてくれる者を現場に配置したくない」
宇崎の口調は、はじめから一定でただ淡々としていた。神経質そうな薄い唇が、何か決められた記号を発するかのように早口に動く。対して、京は言葉を厳選していた。これでも、である。その証拠に逐一、奥歯を噛みしめる音が小さく鳴っていた。
「浦島!」
 厳選した次の一言は金熊の怒声によって遮られた。黙った京をきつく睨みつけた後、金熊は宇崎に向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ありません! 私の指導不足でございます! 浦島には私の方から言って聞かせますので、今回はどうかご容赦くださいっ」
「課長、宇崎部長」
小雪が静かに立った。
「私の方は何も問題ありません。命令通り、麻宮法香の監視組をサポートします」

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