First Impression Chapter 1

 よく朝、昨日の迷いが馬鹿らしいほどにフレッドは手際良く準備をしていた。ベオグラードの家は王都の外れにある。その王都に行くにも結構手間がかかり、朝から支度を始めても早いということはない。荷物の最期に例の紙切れを詰めて玄関のドアを開けようとした矢先、
「おい、朝っぱらからどこに行くつもりなんだ。昨日からコソコソしやがって! 気に食わねぇ」
呼び止められた、というよりは単にいちゃもんつけられた感じだ。真面目に対応することほど無駄なことはない。昨晩から酒を飲みっぱなしなのか、不意に現れた父親は赤らんだ顔でアルコール臭を漂わせていた。
「別に……。そっちこそ朝っぱらから酒飲むなよ、みっともない。人の迷惑ってのを考えろって言ってるだろ」
「うるせぇ! 俺に指図すんじゃねえ! 一端の口利く前に仕事のひとつでも見つけてこいってんだ!」
毎度のことだ、そろそろ慣れというものがある。最後の方はドアを閉める音と重なって、あまりよく聞き取れなかった。
 早朝の風はまだ肌寒い。身震いしてフレッドは馬車乗り場に向かった。後方で、閉めたドアに向けて酒瓶を投げつけたらしい凄まじい音がした。後始末をするのが本人ではないことは分かっていたが引き返す気にもなれない。後ろ髪引かれながらもフレッドは覚悟を決めた。この仕事に命を懸ける覚悟と、自立する覚悟――唇を噛みしめると乾燥した空気のせいで僅かに血が滲んだ。王都までおよそ一時間半――。


 賑やかな繁華街の外れに立ち並ぶ、こぢんまりとした家々の中にその家はあった。オレンジ色の屋根に、赤や黄色の花で彩られた出窓、その奥に見えるレースのカーテンが微かに揺れるのが見える。派手さや豪華さは王都の中心部の建物には劣るが、ここには郊外特有のゆったりとした空気が流れていた。この家も、周りの風景に見事に調和しているように見える。が、その完璧な調和が逆にフレッドには不自然にも見えた。勝手な違和感を抱きながら、彼はこのベオグラード邸の前に突っ立っている。一通り概観を観察して、ちょっとしたケチ付けられるほどには、時間が経過していた。
「あの……何か御用でしょうか?」
ようやく扉をノックする決心をしたところで、不意に声をかけられ出鼻をくじかれる。白いアネモネの鉢を抱えた女性が、フレッドの背後に立っていた。明らかに不審としか言いようがないフレッドに対しても柔らかい口調である。自分のことを棚に上げて、彼は目の前の女性に対して訝しげな表情を作っていた。
「うちの人に何か?」
間を空けたフレッドに、再度女性が問いかける。
「あっ、え。その、ベオグラードさんに会いたいんですけど……! あ、俺ウィームの村の」
必要以上にどもって不審者レベルを上げながらも何とか用件を伝えると、女性は再びにこやかに笑ってくれた。適当な場所に鉢を置いて、扉を開ける。
「どうぞ。生憎主人は留守ですけどすぐ戻りますから。お飲物は何がよろしいかしら?」
「あ……どうも」
最大の難関のようだったドアがあっさり開けられ、フレッドは家の中に通された。無粋だとは思いながらも玄関の脇に飾られてある写真に目を向ける。写真の中では彼女とは別の大人しそうな女性が微笑んでいた。フレッドにとっては懐かしい笑顔だ。
「私は後妻です。前の奥様は……」
「知ってます。先の内戦で亡くされたんですよね。昔よく遊んでもらったんで……」
ベオグラードが再婚したことは知っていたが、その相手に会ったのは今日が始めてだった。
「ご存なんですね。……随分最近のことのように思えるけれど、あれからもう八年も経つ。あの時のことを思えば今は平和ですわね。」
「内戦なんて国全体が敵みたいなもんですから。俺の村でも何人も死にました。生きるために、……生かすためにはいろいろやったし。おかげさまで身内は生きてますけど。……ほんとに、今は平和ですよ。多少の衝突はあっても」


 八年前――後に十三ヶ月戦争《サーティーンサバイブ》と呼ばれる、王権をめぐる争いがあった。それはファーレン全土に広がり、一年と一ヶ月に及ぶ内戦となった。多くの人々が血を流し、憎しみ会った結果、今の国王が即位し内戦は終結した。
 ベオグラードの妻が言うように、フレッドの記憶にもまだ新しいものとして刻まれている出来事だ。それでもいつかは歴史の一部として片づけられる。自分がそうできるかどうかは疑問だったが。
 物思いに耽入ろうとした矢先、足下に感じる震動でフレッドは我に返った。眉を顰め塵ひとつない床を凝視する。
「地下です。主人が呼んだ方はそこへ通すように言われています。」
「は? 地下?」
素っ頓狂な声を上げると同時に、また地響きがする。一抹の不安が頭をよぎった。
「あの……俺の他に何人くらいいるんですか? 詳しいこと全然聞いてなくて」
「三、四人通したかしら。私も全く言われてないので……」
とりあえず適当に笑顔を取り繕ってお茶を濁してみるが、胸中ではこのまま踵を返したい気分だった。花に囲まれた郊外の屋敷に、わざわざ地下室を作っている時点で主は奇特である。しかし妙に納得してしまうのもまた事実だ。ベオグラードのおかしな性格は長年のつき合いで、すでにフレッドにとっては異様ではなくなっていた。
 気は進まないが、行くしかない。手の掛かる不良生徒の教室へ赴く新任教師の気分を味わいながら、フレッドは案内されるまま地下への階段に足を進めた。一歩下る。また一歩。その度に騒がしさが増した気がする。重い空気の中の唯一の救いは、換気がなされていることと照明が整備されていることだ。几帳面な奥さんの努力の賜だろうか。
 前方、両開きの扉が廊下の終わりを告げている。奥さんが立ち止まって無言の合図をした。騒がしいと思っていた部屋の中からは特に目立って奇声は漏れてこない。どうやら震動だけを派手に伝えているらしい。
「少ししたらベオグラードが参りますから。私は上に居ますので何かあったらおっしゃってください」
フレッドは軽く会釈してすぐに扉を押した。一拍置いたら、またいらぬ緊張に駆られて立ち往生しそうだ。
 キィィ――ー思ったより静かな音で開いてほっとしたようながっかりしたような、意表を突かれて驚く間もなく、フレッドはすぐさま注目の的となった。同じ年頃の女が二人、若干年上そうな男が一人、こちらを凝視している。男の方のわざとらしい溜息から察するに、彼らもベオグラードを待っているのだろう。フレッドは近くの椅子に腰を下ろした。長旅の上に長待ちとなれば、溜息をつきたいのはフレッドも同じだ。
「ね、あなたもこの仕事の参加者なんでしょ? どっから来たの? 私リナレスって言うんだけど、名前は?」
「やめなさいよ、いきなり。あなたの早口って慣れるまで聞き取りづらいんだから」
赤みがかった髪の細身の女を制す、くっきりカールされたロングヘアの女。先刻一瞬目を配ったときより大人っぽい印象を受けた。テーブルに身を乗り出して、やたらに人なつっこく自己紹介してきた女は、訳もなく満面の笑顔だ。
「あんたたちも? 命懸けって……女の子も大丈夫なのかよ……。俺はフレッド。出身は南のウィーム」
好意には好意で返すのがてっとり早い。少なくとも女性二人に敵意は持たれていないようだった。
「ウィームか。私はね、そのもうちょっと南の方の街から来たの。女なんかいないかと私も思ってたんだけど、こーんな美人さんもいるしね」
リナレスと名乗った女が、隣で頬杖をつく女をさらりと紹介する。よく見ると大人っぽい上に目鼻立ちの整ったかなりの美人だった。
「私はティラナ。この近くに住んでるの。私ももっとごつごつした男の人ばっかりかと思ってたから意外だわ。あなた、仕事は何を?」
「え、俺は特に何も。……実家で店を手伝ってるくらいで」
「店? お店って実家が? へー、何の店なの?」
「ああ、俺の家は……」



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