The Responsibility Chapter 15

 彼女にとって「理想」とは、やがて実現されるものの構想であった。だから彼女がそれを語るときには常に具体性を意識していたし、随時表出する諸問題にもその都度対処していけるバイタリティも持ち合わせているつもりでいた。
 ──人の命に甲乙つけて理想ばっか語ってんな。──
 フレッドの鋭利な言葉が脳内で蘇る。彼にとって「理想」とは、「絶対に実現されない作り物語」であった。仮に現実に描き出された理想があるとすれば、それは欺瞞と犠牲によって作られた、気持ちの悪い完成体であるとしか思えなかった。
 両者は決定的に違う。それが、二人の間に元からあった決定的な溝の正体だ。クレスはそれをあのときはっきりと理解した。理解し、その溝は自らの行動と結果によって埋められるものだと判断した。それだから、連中を混乱させることになるとは思いながらも単独で船を出し、単独でこのイズトフ地区に赴いた。ファーレン本土から船で北東へ半日程度の、第二ラインに最も近いファーレン領であり、最も産業の潤った地域であり、最も治安の悪い街である。
 クレスは腰に下げた剣の位置を確かめると、眼前に広がるきらびやかな街の灯に一瞬だけ目を細めた。空は黒く、いくつかの星が曇をかき分けるように輝いていたが、この街の人間は健気に光る星など大して気にも留めない。人々が目を輝かせるのは、そこに存在する金と享楽、ある意味で「理想」と「現実」がかけ離れていない連中の世界だ。
「ちょっとそこのおねいさんっ」
クレスは見向きもせず歩を進めた。声の主もめげずに後を追いかけてくる。
「どっかの店の娘? うちで商売しなよ、うまいこと儲けさせてあげるよ」
ここは紛れもなくファーレン領だ。しかしこの街の連中は本土の内戦には全くと言っていいほど関心がないようだった。腹立たしいやらあきれるやらで、クレスは淡々とため息をついた。ついでとばかりに腰に下げた剣を引き上げて、鞘の際に入った王家の紋をちらつかせた。声をかけてきた男は、まずい、という顔をして愛想笑いを作るとすごすごと人ごみに紛れて行った。
「……相変わらず、ね。この街……」
独りごつ。王職であるとか、軍人であるとか、そういった類の肩書はここではあまり功を奏さない。元々自治都市であったイズトフにはいわゆる軍人嫌いが多い。それでも小者を遠ざけるくらいの効果はあるようだった。
 クレスは迷うことなく街の中央寄りにある宿を目指した。ほどなくして見覚えのある看板を見つけると、その扉を押し開く。ドアベルが店主に来客を告げた。
「いらっしゃい。……っと」
「お久しぶり、バーゼルおじ様。部屋空いてる?」
顎髭を蓄えた中年の男が、カウンター越しに驚愕の表情をこちらに向けた。カクテルグラスとジョッキを両手に抱えたまま一時停止しているのを、クレスが苦笑で応答する。
「なかなか繁盛してるみたいね」
と、どこからともなく高らかに口笛が鳴った。
「よう、バーゼル、こういうサービスもできるんじゃねえか。おい、ねーちゃんっ。ぼさっとしてないでこっちきて座れや。商売してぇんだろ?」
クレスが不快を顔の出す前に、店主がピカピカに磨き上げた空のジョッキで男の脳天を殴りつける。鈍い音がして、当人どころか周りで囃し立てていた連中まで一気に口をつぐんだ。
「バカ野郎! 俺の姪に向かってなんてこと言いやがる! そういう女が欲しいなら別の店に行けっつってんだろうが!」
「あぁ? 姪~?」
ジョッキで殴られた男が異質なものでも見るようにクレスを睨みつける。そうかと思うと、小さく舌打ちして大人しく酒を飲み始めた。クレスも小さくため息をついてカウンターの椅子を引く。
「部屋、空いてる? 使ってないのとかで構わないんだけど」
「そう水臭いこと言うな、部屋なんかいくらでも空いてる。……それより、こんな時間にどうした。一人か?」
「ファーレン本土の状況は、聞いてる?」
「噂程度にな。週に一度のファーレンとの連絡船が途絶えてる。情報は愚か、物資の流通が滞ってる状態だ。喜んでる連中も少なくはないがな」
職人堅気の、いわゆるギルドの連中がそうだ。彼らは彼らの専門技術やそれによって産出された品々、イズトフの人材や資源、そういったこの土地特有の価値あるものがファーレン本土に流れていくのを嫌った。彼らはそれを流通ではなく、一方的な流出だと捉えている。腕のある職人ほど「御国嫌い」が顕著だ。クレスがこの地区を訪れた目的は、まさにそこにあった。
「その一部の喜んでいる人たち、についてちょっと聞きたいんだけど」
クレスが声を潜めた。バーゼルは顔色は変えず、磨いていたグラスを静かに置く。
「現行のファーレン軍艦のほとんどを設計した人物がこの街にいるって聞いたことがある。……王立研究所創始以来の天才で、変わり者で、約束されていた大臣職をあっさり蹴った男。バーゼルおじ様なら何か知ってるんじゃないかと思って」
「心当たりがないわけじゃない……が」
瞳を輝かせるクレスに向けて、バーゼルは訝しげに眉をしかめた。
「そんなのに会ってどうする。噂じゃ、変わり者どころかイズトフでもかなりぶっとんだ連中だ」
「そうでなきゃ、内々に〝最強の軍艦"を作ったりしないわね」
バーゼルが鳩が豆鉄砲をくったように目を丸くした。クレスは出されたオレンジジュースを事もなげに吸いこむ。
「知ってたのか」
「いいえ? 今のおじ様の反応で確信はしたけど」
バーゼルの目が、更に点になる。軍人とは言え姪子にかまをかけられるとは思ってもみなかった、それに上手く乗せられてしまっている自分に情けなさを覚えながらも諦めたように嘆息した。
「元々この街はファーレン軍に武器類、火薬類を卸してるだろう。腕のいい技術者は山のように居る。その中でもとりわけ腕のいい連中を街のはずれに集めて製造してるのがそれだ。お前の言うように無許可、無申請……つまり違法ってことになるが、この街の連中は分かっててそれを黙認している。そういう街だ。腕とモノが全て」
なるほど、とクレスが口の中で小さく呟いた。憮然としたその様子を見て、バーゼルは一抹の不安を胸に抱く。酒は出していないはずだが、クレスの目はこのとき既に座りきっていて何か良からぬことをたくらんでいることは明白だった。
「それを手に入れるには、変わり者の親玉と直接交渉するしかないかしら?」
あまつさえ、惜しげもなくこんなことを言ってのける。せめて悪戯っぽく笑ってくれればその場しのぎにせよ多少は気が楽になるのだが、クレスはどこまでも至って真面目で真剣、バーゼルはお手上げとばかりに天を仰いだ。
「なんでお前がそんな危ない橋を渡らなきゃならないんだ。あまり賛成できんな」
「理想を空想で終わらせないために、どうしても必要なの。おじ様を頼りにしてきた甲斐があったわ、明朝、交渉に行く」
今度は極上の会心の笑みを浮かべて、クレスが席を立つと二階の宿場に向かった。後残るは未だ騒がしく食事を続ける客と、頭をかくバーゼルだけだった。
「昼間はそう危険はないとは思うが、用心していけよ。何でもありだからな、この街は」
 朝早く、クレスがカウンターに腰かけるなりバーゼルが挨拶代わりの忠告をくれる。あくびで応答する姪の前に、焼きたてのバゲットと淹れたての珈琲を置いた。バーゼルの焼いたバゲットはイズトフでは評判で、ちょっとした名物のようなものだった。それ目当てに来る客で、店内は朝から賑やかだ。クレスはのんびりとそれを堪能しつつ生返事をした。
「じゃあ行くわ。良い情報をごちそうさま、バゲットも相変わらずファーレン一ね」
「御世辞はいいから、駄目なら駄目で一旦戻ってこいよ。夜は危ない」
客の相手をしながらバーゼルが心配そうに見送る。ファーレン護衛隊長──それも百戦錬磨と名高い──を相手に、年頃の街娘にするのと同じ見送りをしてくれるのは、おそらく彼だけだ。クレスはむず痒いような生温かいような気持ちに苦笑いをこぼして店を出た。



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