日が西の空で真っ赤に燃えている。太陽は往生際悪く落ちることを躊躇っていたが、それも時間の問題だ。フレッドは、既に暗闇に包まれているライン山中でぼんやりと遠くの空を眺めながら身を、息を潜めていた。
フレッド、ルレオ、シルフィ、そしてベルトニアの約二千の兵で総攻撃を仕掛けた結果、警備の手薄だったラインは攻め落とすことに成功、こちらの砦として構えることができた。無論、無傷ではない。
「おい、ぼーっとすんな。いつ仕掛けてくるか分かんねぇぞ」
「ああ、悪い」
サンドリアが用意してくれた兵の四分の一は何らかの形で戦闘不能となった。軍事国家のファーレンを相手に、これだけの犠牲で留まっていることを喜ぶべきか悼むべきか、分からずじまいだ。国境を文字通りラインとして、ファーレン側もベルトニア側も互いの出方を計りかねていた。膠着状態がかれこれ三時間ばかり続いている。
「……来る前から思ってたんだけどな、今さらっちゃあ今さらだけど」
珍しく、ルレオが言葉を濁す。彼も長時間に及ぶ戦闘と待機で体力を消耗していた。
第一ライン<国境>、夜の闇に包まれた鬱蒼とした茂みの中、そこにしゃがみ込んでいると初めてベルトニアに来たときのことを思い出す。あのときはクレスがいた。今はその代わりとばかりにシルフィが隣でうとうとしている。
「なんでチビ、連れてきた……? もうごちゃごちゃ言う気もねぇけど、ベルトニアに置いときゃ少なくとも最悪の事態は回避できる。俺、言ったはずだぞ。……ここじゃ誰が死んでも不思議じゃねえんだ」
フレッドは傍らで寝息を立て始めたシルフィに視線を落とした。先刻まで武器類を乗せた馬車に身を潜めていた彼女も、今はフレッドの横で束の間の安楽を得ている。
「連れてくるわけないだろ。……乗ってたんだよ、馬車に。まぁ俺たちが思ってるよりずっと賢いからな、自分の身くらいは自分で守るだろ」
「だといいけどな。万が一のことは保障しねぇぞ」
「そのときは俺が責任とるよ」
フレッドは思わず苦笑で返す。「そのとき」と呼ばれる瞬間は、おそらくルレオの言う万が一よりも高確率で訪れる。分かっていたからこその自嘲の笑みだった。ルレオははじめの断りどおり、それに関しては詰まらなそうに生返事をしただけで批難も罵倒もしなかった。
シルフィの寝息とは別に、随所から時に長い溜息が聞こえた。
(長引けば、それだけこっちが不利か……)
集中力の切れ始めた兵たちを見回してフレッドは一抹の不安を覚えていた。不安の要素は実はそれだけではない。いつもなら、この長い沈黙期間においてルレオと至近距離での待機を選ぶことはまずない。しかしこの近距離──小声で会話が済ませられるほどの──を選んだのは、フレッドの判断だった。ちらりとルレオの矢のストックに目をやる。残数が、数えられるという時点でそれはもう芳しくない状況でしかなかった。
ラインを攻め落とす際、ベルトニア兵を率いて先制し、ファーレン兵を撤退させたのは他でもないルレオの功績によるところが大きい。金のためだけにここまでできるなら別の意味で感心するが、ここにきてそれだけではない彼の一面も見た気がする。
残り数十本の矢を見つめていると、ルレオがおもむろにその一本に手をかける。
業を煮やしていたのも、集中力を切らしていたのもこちら側だけではなかったようだ。それを察してフレッドも剣の柄を握りなおした。ここにはミレイの予知はない。クレスのアシストもない。あるのは底のつきかけた鉄製の矢と、一振りの鋼の剣、そしてあるのかないのか分からない幻のような互いの信頼感だけだった。
ルレオの頬をえぐった高速の矢は、そのまま薮を突っ切って待機していたベルトニア兵の一人を射抜いた。それとほぼ同時にルレオも敵の弓兵を射抜く。
「ボケっとしてんなよ! 来るぞ!」
誰に宛てたわけでもないルレオの雄叫びが、最初の悲鳴をかき消してはじまりの合図となった。滲む血の線を大雑把に拭って、息つくまもなく次の矢を握る。五、六本を軽快に放って茂みに潜んでいたファーレン兵を次々と仕留めた。フレッドは抜刀するや否や、間髪入れず飛び出して前衛を買って出た。
先制された──その事実は、集中力を欠いていたベルトニア軍を容赦なく追い詰める。根城として胡座をかいていたラインの山中は既に包囲されていた。虫の声以外何一つ効果音の無かった空間に悲鳴と雄叫びが轟き、血なまぐさい臭いと共に場を支配した。視界だけが相も変わらず薄暗かった。
いつの間にか、半ば無意識にフレッドはシルフィを守る態勢を作っていた。少女はただ後方の茂みに身を潜めて、頭のフードをきつく押さえてうずくまっている。何度か振り返ってそれを確認しては、ルレオの姿を見失わないように前方に目を凝らした。その視界を遮る連中を片っ端から斬る。フレッドの腕は、剣の重みや手応えや、増えていく裂傷で痺れを覚え始めていた。
「フレッドぉ……」
シルフィの消え入りそうな声に少しだけ振り返る。その動作のおかげで少女の背後の影に気づくことができた。シルフィを力任せに引きずり出すと、その反動を利用して位置を逆転させる。目の前の黒い影に向けて、なりふり構わず剣を突き出した。腕が重い。それを確認して、一気に刃を回転させ、引き抜いた。おそらく返り血を浴びたのだと思う、生暖かく不快な感覚が皮膚に飛び散った。それを気に留めているような段階では、もはやなかった。
「ごめんな、シルフィ。こんなところに連れてきて」
「あたしなら大丈夫だよ! 自分でついてきたんだもん、絶対、足でまといにはならないから!」
「……そっか。じゃあ、もう少しだけ我慢してくれな」
自分に言い聞かせた。ルレオの言葉がまたループする。──誰が死んでも関わんな──誰が死んだ? 何人死んだ? どれだけの血を浴び流してきたか、今ここに立つ連中は誰もそれを知らない。それを考えないことが、この場で共有される唯一のルールだった。
フレッドは剣を振った。振り続けた。狂気じみた敵兵たちが彼に休息を与えなかった。
「フレッドさん、ルレオさん! 先に市街地に下りてください! このままじゃ埒があきません」
鼓動が早鐘を打つ。何か言おうと口を開いたが、声を発する前に若い兵がたたみかけた。
「押されている、というのが現状です。であれば、僕らにできるのは少しでも多くのファーレン兵をここで足止めすること。今とれる最良の措置です……!」
何度か見たことのある顔だった。サンドリアの横でよく愚痴をこぼしていた若い兵、外見だけ見れば歳はフレッドと同じか少し下くらいだ。暗がりの中、知った顔を見つけてしまったことにフレッドは苦虫を潰していた。夜目が利くのか、若い兵はそれを受けて苦笑いした。
「……行ってください。これは作戦ですから、僕らはそれに沿ってフレッドさん、ルレオさんを城下に誘導しなくてはならない。僕はサンドリア隊長の部下ですから、その命令を守るのが僕の仕事で、誇りなんです」
前夜サンドリアと交わした最後の打ち合わせが脳裏をよぎった。彼の言うとおり、フレッドとルレオはあるポイントに行って、準備されている大砲でファーレン城門を打ち破る手はずになっている。ここで足止めを食うわけにも、ましてや殺されてやるわけにもいかなかった。
息を切らしてルレオが合流する。
「行くぞ、フレッド! 構うな、俺らには俺らのやることがある!」
奥歯に血がにじんだ。噛みしめて噛みしめて限界を感じた頃、フレッドはシルフィを米俵のように小脇に抱えてルレオの手招く方へ全速力で走った。味方の援護を受けながら、ルレオと一気に山をくだる。急こう配のけもの道を一心不乱に駆け抜けた。
「フレッドっ、駄目だよ戻らなきゃ! みんなで戦わなきゃやられちゃうよ!」
フレッドに抱えられたまま、シルフィが必死に叫ぶ。もがくシルフィを振り落とさないようにしっかりと掴んで、フレッドは無反応で走り続けた。応答できる状態でもなかった。
「似たようなこと何度も言わせんな! あいつらはそれが役目なんだよ!」
ルレオが代返する。
「おかしいよ、そんなの……!」
「おかしくねぇ! これ以上ごちゃごちゃわめくな、撃ち落とされたいか!」
本気で矢をセットするものだから、シルフィも口をつぐまざるを得ない。効果があったのを見計らってルレオは苦し紛れに皮肉の笑みを浮かべた。
「つっても、そんな無駄なことに使える矢なんかねぇんだけどな」
彼にしてはめずらしく、声を潜めてぼやいた。ルレオはあまり独り言を言わない。言ってもそれは大抵の場合大声で発せられるから、純粋に独り言と分類できるかというと違う気がした。その彼が、意図的に辺りを憚ってぼやいたのだから一大事だ。