「あっ、そういえば。ギアさん、ベオグラードさんが呼んでましたよ。話があるから何とか亭って店に来てくれって……。えーっと」
「ああ、聞いてるよ。〝猫じゃらし亭"だよな? 薄暗くなってきたし、そろそろ行こうかな」
あっけらかんと退室するギアを呼びとめようかどうか、フレッドは一瞬迷った。その一瞬のうちにギアは結構な早足で廊下を突き進んでいてタイミングを失う。フレッドの記憶が確かならば、その店の外壁は文字通り木端微塵に破壊したはずだ。元のままの料亭なら、密談なり談合なりを行うには持って来いだったのかもしれないが、性悪二人が秘密会議を行うくらいなら壁がないことくらいさして問題でもないのかもしれない。などと勝手に解釈する。
「俺もそろそろ。ミレイは? 城に残るんだよな」
「そうです。ベオグラードさんが部屋を用意してくださったので」
「いよいよもって宮廷予言士ってかんじになってきたなっ」
まんざらでもないのか頬を赤らめるミレイ。
すると、今の今まで珍しく静かにしていたルレオが突然腰をあげる。退屈そうに半眼を晒して数秒無意味に突っ立っていた。
「じゃあな。お前らとももう会うこともねぇだろうけど。せいぜいがんばって王様ごっこするんだな」
「待てよ、会うこともないって……」
「仕事は終わりだ。ベオグラードから金も受け取ったしな、もうお前らに付き合う理由もねえし俺は帰らせてもらうぜ。なんか文句あるか」
「……いや。じゃあ、な」
ルレオは手ひとつ振らずそのままあっさり部屋を後にした。あまりに簡素すぎて正直気が抜ける。結局最後まで金の亡者は金の亡者のまま、ある意味では美しく去っていたということだ。
フレッドはバルコニーに向かった。思い出すだけで死にたくなる演説をかましたあのバルコニーではない。彼が向かうのは逆方向、城の裏手に王都の路地を見渡せるスポットだ。昼間少し城内を散策したときに目を付けておいた場所だが、そういう場所には決まって先客がいる。
「……俺、場所言ってなかったよな……?」
ブロンドのアップヘアを目にして、不躾にそう背中に投げかけた。クレスが振り返って肩を竦める。
「それはこっちの台詞。でもまあ、ちょうど良かったかもね。今呼びに行こうと思ってたところだから。……ファーレン城はベルトニアと違って気が休まらないでしょ。鉄格子が多いし」
クレスが言う気の休まらない場所とやらを避けていくと、必然的にこの場所に辿り着く。二人が共有する視界には正面バルコニーから見るような王都の華やかさも満点の星空もないが、町はずれにある古い時計塔がやけに印象的に映る。ぼんやり見つめるとすれば目につくのはそれくらいで、後は路地裏に灯る明かりがぽつぽつと見えるくらいだ。
話をするのに特に絶景である必要はなかった。とにかく横やりが入らない場所が好ましい。その観点からすれば、ここはファーレン城内唯一の場所かもしれない。
「あのときは言いすぎた。イライラしてたんだ、本心じゃない」
「分かってる。私もそうだったから。……私こそ、ニースを悪く言ったこと謝らなくちゃ」
フレッドは失笑してかぶりを振った。クレスは心外そうに眉を潜めた。その話題は本題のようでいて、もはや話のきっかけ程度のものでしかなくなっていた。それを互いに了承していたからこの形式的なはじまりに失笑がもれたのである。
「あの後、どうしてた? その、俺たちと別れた後……なんか妙なのがひとり増えてたろ」
「ギアのこと? まあ変わっていると言えばそうだけど。イズトフにね、ちょっと知り合いがいて、あの戦艦の所在を確かめたかったの。そこでギアが協力してくれることになって、まあ、いろいろあったのよ。そっちの方はあらかたベオグラードから聞いたわ。……大変だったわね」
「ああ、まあ」
二人は半ばどうでもいいことをわざわざ聞き合った。どうでもいい質問にどうでもいい相槌をうって沈黙を避けた。それでもしばらくすると言葉が途切れる。何度かそれを繰り返した後、フレッドが切りだした。
「……さっきルレオが帰った。ミレイや、ギアだっけ、あいつらはファーレン復興に協力するだろうから残るみたいだけど……。クレスは、どうするんだ? これから」
「……王や皇女の許しが出れば前の職に、ファーレンに残るつもりよ。あなたの言うとおりこの国の改革は始まったばかりだもの、力が及ぶ限り協力したいと思う」
分かりきっていた応えではあった。はじめから彼女の目的はファーレン奪還ただひとつだったのだから妥当である。
「フレッドこそ、どうするつもり? 王位のことはもちろんだけど、これからの身の振り方は」
「ああ、うん。考えてるよ、一応はね。……気になることがあってさ。連行したルーヴェンス軍の中に、赤い髪の子どもがいなかった。シルフィの話通りなら仕掛けてくるのはこれからのはずだろ。……いや、仕掛けてくるんだと思う。確実に」
「どうして、言い切れるの?」
クレスの脳裏にギアの台詞が蘇る。ベオグラードが汚い手を使ってギアを引き込んだ理由がこれだとしたら、皆もう水面下で手を打ち始めているということだ。一番関与することを厭いそうなフレッドまでが何か思案しているとなれば、自分が知らぬ存ぜぬというわけにはいかない。
フレッドは質問には答えずポケットの中を漁りだしたかと思うと、不躾にクレスの前に拳を突き出した。その手の隙間から銀の鎖がゆっくり姿を表す。
「……返すよ。長いこと借りっぱなしで悪かったな」
フレッドはクレスの手に、ゆっくりと懐中時計を渡した。鎖同士がこすれあって小さく音をたてる。クレスは二三度頷いて時計を首から掛けた。
「少しは効き目、あったでしょ」
冗談ぽく笑う彼女に対してフレッドは無反応だった。クレスの胸元で光るそれに手を伸ばして蓋をあける。クレスにはフレッドの行動の真意が読めず首を傾げるしかできない。
「見ろよ。何か気付くことないか?」
文字盤をクレスに向ける。時計は相変わらず動く気配すらなく、その針は12時15分をさして止まっている。クレスはフレッドの手から時計を奪い取って唖嘆した。
「気づくも何も、動かしたの? 12時ぴったりで止まってたはずよ」
フレッドはただかぶりを振る。
「じゃ何」
微かに苛立ちを顔に出してフレッドの答えを急かした。もったいぶっているわけではない、言い出しにくいのだ。
フレッドが一昨日シルフィから打ち明けられた話は、理解の範疇を軽く凌駕していた。それでもフレッドがその夢物語のような内容を黙って聞いていたのは、疑う余地が残されていなかったからだ。彼を信じさせたのはこの時計──この15分の移動。
「誰も動かしてない、そいつが自分で動いたんだ。シルフィが時を止めたときに」
「は? 何? なんて?」
我慢の限界を超えたのか、思いきり半音あげて疑問符を連発するクレス。またフレッドが、これ以上ないほどの生真面目な顔をして言うものだから余計に目と耳を疑ってしまう。フレッドが続けて〝時の止まったとき"に起こった出来事を語るのを、クレスは混乱と共に聞いていた。
「ちょ、ちょっと待って。信じろって言うの? 本気で?」
「……現に俺は砲弾を真っ二つにした」
「それは……」
頭から信じろというのには無理がある。しかしここで再び意見を衝突させて口論をしたところで無意味だ。クレスはどうすべきか分からず、動かないままの時計の針を見た。
「シルフィが時間を止めてる間、確かに動いてたんだ。秒針が動く音がはっきり聞こえた。……ま、何にせよ、そいつがお守りだったってのは嘘じゃなかったな」
クレスにこの話をしたのには理由があった。時計の持ち主なら何かこの現象が意味することを知っているのではと踏んだからである。しかし実際には彼女は何も知らなかったし、フレッドもそれ以上追及しなかった。
「シルフィとは話したんでしょ。この時計については何て? そもそもあの子──」
シルフィも知らないのだろう、知っていたら話していたはずだ。
「こっちの展開の方がまだシビアだけど、ついてこれんの?」
「今さらでしょう、もう。納得する保証はないけど聞いておきたい」
なかなか現金な女だ。フレッドは含み笑いをこぼすと大きく一度深呼吸した。