フィリアの泣き声が聞こえなくなるまで、随分長く感じられた。その間、壁掛け時計の針は、これでもかといわんばかりに馬鹿でかい音をたてて行進し、何度も何度もぐるぐる回っては時を主張しているようだった。実際は4、5分といったところなのだろうが、それでもこの部屋と外の世界を隔絶するには十分な時間だ。
「……大丈夫か?」
話をしても、という意味でささやいた。ゆっくり腕の力を緩めると、フィリアは腫れたまぶたを伏せながらフレッドの腕を離す。
「ごめん、ね。取り乱しちゃって。……声、聞いたら堪えらんなくって。困ったよね、ごめん」
困っているのはどちらかというとフィリアの方だ、作り笑いが痛々しくて肯定するのも否定するのも躊躇われる。
声──外見も中身もほとんど似ることもなかった兄と、唯一絶対的に血のつながりを感じる要素がそれであることはフレッド自身も知っていた。それが今更、まさかこんな状況下で仇になるなど思ってもみない。
「いいわ、大丈夫。話して」
大丈夫という言葉がどれほど役立たずの代物か、思い知るような一瞬だった。フィリアは泣きじゃくるのをやめただけで、その心中は先刻と何一つ変わってなどいないのだ。それでもフレッドには、言わなくてはならないことがある。
「スイングは、ベルトニアで〝大罪″を受けた。生きてるけど、それだけの状態だ。息、してるだけ。短く意識が戻ることもあったけど、もう随分長くこん睡状態が続いてる」
「うん……。だいたい、分かってた。あの人、そういうとこあるから。……帰ってこない気、してた」
固くまぶたを閉じて、震えた声を制す。フレッドの前では気丈さを演じるのが癖になっていた。気丈で、落ち着いて、なおかつ優しい女を演じ続けていた。今ならそれが互いに分かる。だからフレッドは、幾分居心地が悪そうに視線を泳がせた。泣かれても強がられても、結局のところフレッドにそれをどうこうする手段はないのだ。
「そんな風に言うなって。スイングは帰ってくるよ、俺が何とかしてみせる。ここに引きずってきて、土下座して謝らせてやる」
「フレッド……」
「約束する。だからもう少しだけ、あいつのこと見捨てないで待ってやってくれないかな。振った男にこんなこと言われるのも癪だろうけど」
フィリアが目を丸くする。反動で堪えていた涙がひいた。それを狙っての捨て身の冗談なら大したものだが、フレッドは至って真面目に応答したつもりらしい。心外そうに片眉をあげるのを見て、フィリアは小さく笑いをこぼした。
「そうね。……こんないい男振って、選んだ人だもの。待つわ。何年でも、……何十年でも」
驚くほど自然に、フレッドは笑顔になっていた。もう胸の痛みはない。フィリアを想う気持ちは今もあったが、それは以前とは決定的に形を変えている。心から彼女の幸せを願っている自分に、ようやく気づくことができた。
「ま、気長に待ってろよ。フィリアが婆さんになる前には、連れて戻ってくるから」
「嫌よ! 皺だらけでスイングに会えって言うの?」
フレッドは苦笑交じりに踵を返す。
「もう、行くの?」
ドアノブを握った瞬間、心細そうな声が背中に掛けられた。心から愛しいと思ったし、心から憎いと思ったその声に──振り返って目にしたその人に、フレッドは何の打算もなく穏やかに笑みを送った。たったそれだけのことが、今の今までできずにいたのだと同時に知る。フィリアは、また鳩が豆鉄砲をくったような顔をした。
「やっぱり、似てる」
そして子どものように愛らしく笑った。
「笑い方」
それが何を意味していたのかは瞬時に悟ったが、フィリアは反論を許さなかった。フレッドの頬に両手を伸ばし、優しくくちづける。不意打ちだったとはいえ、そちらに関しては何を意味しているのかすぐには理解が追いつかなかった。
「……相手、間違えてない……?」
「ちゃんと分かってるわよ。フレッド、すごく変わった。いいオトコになったね。私きっとすごくもったいないことしちゃったんだろうな」
冗談とも本気ともとれないような勝気な笑みを浮かべるフィリア、その痩せた頬に少しの無理が見えたがフィリア自身、それでいいと思っていた。彼女が甘える相手はフレッドではない。
「いろいろありがとう、フレッド」
要するに、そういう意味合いのキスだ。理解はしたが、それをさらりを受け入れるほど淡白にはなれない。耳が熱くなるのを感じて、フレッドはごまかすようにさっさと部屋を出た。
「行ってきます」
階下でマリィが手を振っていた。物分りの良い妹はフレッドの行動の唐突さにいちいち文句も疑問も言わない。どいつもこいつも事情を根掘り葉掘り知りたがる(誰とは限定しないが)のにマリィはおおよそのことを、とりわけフレッドの内情を抜群に察してくれる。そのあり難さをかみしめて、フレッドは軽く手を振り返すと自宅を後にした。
フレッドにとってのウィームへの帰還は、フィリアに会うことが使命であり目的であったから、その大部分は果たしたと言っていい。彼は夜のうちには馬車に乗り、翌朝再び王都へ戻ってきた。セルシナ皇女から、城内にある書庫の閲覧許可を得ている。それを活用するためだった。
「ふぁーーあ」
書庫は予想以上に広い。そしてその蔵書数はフレッドの知っている図書館と名のつくものとは比較にならないほど多い。膨大な数の本の中から、大罪関連の棚を見つけるだけでも一苦労だったのに、それを闇雲に端から読みつぶしていこうとしたのが間違いだった。先刻からあくびばかりを繰り返している。
「『前世の悪行を来世で償う思想、またその償いとして現れた心身の欠陥』……なんじゃそりゃ」
積み上げた分厚い本の山を頬杖代わりに毒づく。かれこれこの類の文を数十回読み上げている。暗記大会の勉強に来ているわけではないのだが、実質フレッドの脳内ではその一節ばかりが駆け回っていた。ため息をやり直して、次の本を手にとる。『黒魔術と大罪』という背表紙を目にするや否や本を置き、うつ伏せになった。
馬鹿でかい書庫にはフレッドの他に誰もいない。何気なくつくため息と、時折思い出したようにつぶやくフレッド自身の独り言以外空気を振動させるものはなかった。
「調べものは順調かい?」
だから不意にかけられた言葉に、フレッドは思い切り椅子をひいて距離をとった。静寂を切り裂いたのはギアだ。フレッドの過剰反応も特に気に留める様子はなくへらへらと笑っている。
「い、いつからそこに?」
「うーん……? 3分くらい前からかな。暇だし手伝っちゃおうかなあと思って。これとか、これとか、お勧めかな」
ギアが訳知り風に机上に置いた二冊は、いずれも神話だの童話だのの薄い本だった。
「おとぎ話だけどね。書いてあることは事実だ。君も聞いたろ? ラインの生まれたいきさつは」
ギアがフレッドの隣の椅子を引く。子供向けにしか見えないその本の表紙をめくって、広げて見せた。
「調べるのは大罪そのものじゃない、ラインだ。ここには大した情報は管理されてないよ、十分分かったろ? だったら行く場所はひとつしかない」
ギアの言い回しは、癖なのかいつも遠まわしだ。それでも必要な情報は提示されるからフレッドでも察することができる。大罪とライン、二つが交わる場所といえば北の大陸以外にはない。
「鍵は……シルフィ、か」
開かれたページに目を落とす。それは本当に子供向けの絵本だった。神は戒めの山を創る。山を守る民に時間を操る能力を与える。彼らは時間を戻して、大罪の愚かさを教え説くという神話だ。ギアはその民のことを〝ラインの守人″と呼んだ。
「死神、大罪、ライン、それから守人、これらはひとつなぎだ。どれを解明するにもひとつも欠かせない」
象徴的な言葉とそれらを小出しにされることに、フレッドは多少の苛立ちを覚えるはじめる。正確にはその苛立ちは随分早い段階で、この男自身に向けられていたものだったがフレッドは無意識に気づかないふりをしていた。すべては「天才」とやらに深入りするとろくな目にあわない、という経験に根付いた教訓がそうさせる。不信感をぬぐえないフレッドに、ギアは追い討ちをかけるようにこの場にそぐわない満面の笑みをつくった。
「それと忠告をひとつ。少し危機感を持ったほうがいいよ、君も、君の仲間も」
笑顔のまま書庫を出るギア。フレッドは彼を目で追った体勢のまま、微動だにできずにいた。
「どこまで知ってんだ、あいつ……」
独りごちると、それがまた静寂の空間によく響く。