The simplest magic Chapter 19

 鼻を摘まんだままのため容赦なく鼻濁音がさく裂、シルフィも徐々に問題の花から距離をとる。
「ミレイの村でさ、薬味酒とか何とか言って凄い匂いの……あ!」
言いながらフレッドは重大なことに気づく。全ての謎がきれいさっぱり解けたような開放感に包まれた。今している行動も、この強烈な臭いも、忘れもしないヴィラの宿で出されたあの酒と全く同じなのである。この悪魔の花が原材料のひとつであることは間違いない事実だ。
(とんでもないもの飲まされるところだったんだな……)
ルレオが泡を吹いてひっくり返ったのを思い出して、背筋が寒くなった。こんなところで奇遇にもこんなものに遭遇するとは、世間は狭い。などと親しみを覚えるはずもなく、フレッドは本能に従ってきっちりと防御を続けていた。
「もう! さっきから考え事ばっかりっ。あたしが言いたいのは、この花がどれだけ臭いとかじゃなくって、さっきもここ通ったよってこと!」
「……え?」
ヒステリックなシルフィの声に、フレッドの顔色が変わった。花に対する嫌悪はみるみるうちに引いて、険しい顔つきで周囲を一瞥する。
「あの花、あたしが森に入ってすぐ見つけたもん。入り口があるはずなんだよ、ほんとは」
「……似たような花ならいくらでもあるだろ。とりあえず、進もう」
シルフィは腑に落ちない表情で頷く。二人は花に敵意むきだしでその場を何とか通り抜けた。
 しばらく鬱蒼とした木々の中を歩いて、二人は仲良く生唾を飲んで立ちすくむ。足がこれ以上先に進むのを全力で拒否していた。
「ほら! ほらほら変だよ! 真っ直ぐ走ってきただけで迷うはずないし、入り口が消えちゃってるんだよ!」
つい今しがたケチをつけまくった花が我が物顔でフレッドたちを出迎えてくれる。フレッドの中では既にこの世で最も腹立たしい植物に認定されていた。
「んなことありえない! 歩くぞ!」
「ええ? 疲れたよー……」
シルフィの不平を聞き流して、フレッドは彼女の細い二の腕をひっつかんで再び歩く。お手てつないでのデートもこうなると趣旨が変わる。シルフィは頼りない足取りで渋々同行した。結果はもうこの時点で知れている。十分ばかり歩いたところで、例の花が行く手を阻んでいた。
「フレッド~」
フレッドは何かにとりつかれたようにシルフィを引きずりまわした。シルフィはというと、自ら歩くのは諦め、成すがままにフレッドに引きずられることにしたらしい。少し湿った地面には彼女の足でできたトラックが二本、ふにゃふにゃと残っていく。
 それから七、八回は気力だけでぐるぐる回った。何度やっても辿り着くのは臭い花だ。同じところを何度も歩く疲労感と、出口の見えない不安感、そしてこの毒より毒らしい強烈な異臭で二人の精神状態は早くも極限状態だ。とりわけフレッドは目まで血走っている。
「もうやめない? そろそろ」
フレッドは、このどこまでも落ち着きはらった少女を恨みがかった目で見やると、ついに力なくその場にしゃがみこんだ。普通はこのくらいの年齢の女の子は、状況に耐えきれず泣くか喚くか暴走するかするものだが、暴走したのはどう見てもフレッドの方だ。
「そうだな、アホらしくなってきた……。一個分かったことならあるけど」
「え! なになに? すごい、フレッド! やみくもに歩いてただけかと思った」
図星だったが敢えて言う必要はない、フレッドは得意満面で向き直る。
「足元見ろよ。シルフィ引き摺ってきた跡が無い」
シルフィが反転して地面を見ると、あれだけ派手につけてきたトラックは機械にならされたように美しく平らになっている。
「ほんとだぁー! 靴には泥、ついてるのに」
「俺たちは同じところをぐるぐる回ってるんじゃない、移動そのものもほとんどしてない。あの花の付近まで来ると戻されてるんだ。この意味が、分かるか?」
体が何かの力でワープさせられているなら、前方にシルフィトラックが既についているはずだ。それがない、ということは跡がつく前の状態に森自体が戻っているということだ。
「この森の、時間が戻されてる。そう考えられないか?」
フレッドの持論──確信している──にシルフィは呆気にとられて口を半開きにしている。失いつつあった信用も一気に回復、ほれなおし状態だ。
 シルフィの熱視線に天狗気分を味わっている場合ではないことは、ものの数秒で判明する。フレッドは自分で言ってのけた仮説に苦悩しはじめた。
「だとしたらどうやって出るんだよ! ぐるぐる回ってんのは結局同じだろ! アホか!」
足は痛いし景色は見飽きたし、虫は五月蠅いし花は臭いしで、とにかく一刻も早くこんなところは脱出したい。しかしその方法が分からない。名実ともに八方ふさがりだ。
「時間魔法ってことかぁ……。っていうことは、あたしと同じ一族の人がここには住んでたのよね? 他の人にこの先に進んでほしくないわけでもあるのかな」
だいたいからして入り口付近のあの花と対峙した時点で、大抵のまともな人間は引き返す。もしそれが秘密を守るという重大な役割を担っているなら話は分かる。
「……なんかシルフィ、賢いな。その通りなんじゃないかひょっとして。住んでたかどうかは別として、ラインの守人がここに居て、何かを他の奴らに見られないようにこの時間魔法をかけた、と。……もう少し散策してみるか。案外、北の大陸に行く手間が省けたのかもしれない」
「うんっ。やるやる」
フレッドは若干年寄りじみた立ちあがり方をして、またシルフィに手を差し伸べた。当人としては完全な無意識なのだが、このあたりの気配りめいた行動がシルフィにとってはツボらしい。お姫様を気取ってその手を取ると、しっかり握り返して立ちあがった。
 余談だが、このほほえましい空気が流れたのはこの後数分の間で、その後は森のループに入った直後からの堂々巡りだった。あくまで余談である。


 近くにいるのに遠い距離──ラブロマンスの常套句のようなそれが、まさに今のフレッドたちとギアたちとの距離感だった。彼らの実際の距離は50メートルとない。森の入り口とやらは、ミレイが少し横目になると監視可能であった。
「帰ってきませんね。何やってるんでしょう」
言わずもがなフレッドとシルフィのことである。二人が帰ってこないものだからギアが空母の修理に取りかかって以降、ミレイは完全に暇を持て余していた。
「言われてみれば遅いね。一応メドも立ったし、俺たちも行ってみようか?」
ギアが手元でスパナを弄びながら立ちあがった。反応があったことにまず戸惑って、ミレイは口を半開きにしている。それからこの短時間に、何かのメドが立ったということに感心を通り越して背筋を寒くした。
「そ、そうですねっ。行ってみましょう」
愛想笑いで誤魔化してミレイが同意する。目と鼻の先にある森の中へ足を踏み入れようとしたそのとき、何の前触れもなくギアに肩を掴まれた。
「どうしたんですか? この奥ですよね、二人」
「いや、俺たちは海岸沿いを回ろう。……なかなかおもしろいつくりになってるみたいだ」
「はい?」
不敵な笑みを浮かべるギアに、ミレイはついに素っ頓狂な声をあげる。マイペースという点ではミレイも引け目をとらないが、ギアの場合はペース云々よりも歩いているフィールドそのものが他人のそれとは違う。発する言葉も表情も、ミレイにとっては不可解でしかない。
 不審者と対峙したようなミレイの素振りに気付いて、ギアが笑い方を柔和なものに変えた。
「そもそもあの赤い花、薬の原料なんだけどめちゃくちゃ臭い。嗅がなくて済むならその方がいいよ」
「はぁ~、そうなんですかぁ。ギアさんって本当に何でも知ってるんですね」
「はっはっは! ほんとのことを言っても褒め言葉にはならないよ」
ミレイはやはり、一筋の汗を流しながら作り笑いを浮かべていた。
 二人は森に背を向け、潮の香り漂う砂浜を歩くことにした。人がいないから港がない。港がないから船もない。熱帯雨林も広大な海も見慣れているミレイだったが、人工物の一切ない浜辺はどことなく雰囲気が違う。漠然と寂寞を胸に抱いた。



Page Top