雲が流れる。倉庫内を照らしていた太陽が翳り、一瞬辺りが暗闇に包まれた。楽器庫はおそろしく静かな空間となる。静寂の中で長いキスをした。
パンッ! ──その手の音は、これでもかとういうほど派手に響いた。クレスの渾身の平手打ちは見事にルレオの右頬にクリーンヒット、静寂の終わりとキスの終わりはほぼ同時だった。雲がまた流れ、倉庫に光が差し込む。
「な……んの冗談……? こういうのはちょっと、さすがについていけないんだけど……!」
赤面して後ずさるクレス、その光景にルレオは内心妙な優越感を覚えていた。
「何の、とか言われてもな。そのままだろ」
「はあ?! ふざけないでよ、何で──!」
金切り声を上げながらその質問が墓穴を掘りかねないことを悟る。咄嗟の行動に困り、クレスはそのまま押し黙った。また半歩後ずさる。
「やりてぇからやった。文句あるか」
逆切れと開き直りには慣れている。その慣れていることにすらクレスは過剰に反応して言葉を詰まらせた。文句は山のようにあったが何一つ喉を通らない。
「惚れた女にキスして何が悪い。キスのひとつやふたつでギャーギャーわめくな、鬱陶しい!」
詰まった言葉の上からたたき込まれたルレオのいつもの声、声も調子もいつも通りだがその内容がいかんせん常軌を逸している。クレスがただただ赤い顔を──まだ感触の残る唇を──黙って手で覆うことしかできない。
この口づけにどれだけの重要性と意味があるのか、それがクレスの疑問だった。愛情か、友情か、それともいつもの悪ふざけなのか。後者でないことはルレオの目が物語っていた。
「何を偉そうに……! 子どもじゃないんだからもう少しましな言い訳してくれない?!」
「は? だからだろ。俺はどっかの楽器屋の息子みたいにお手手つないで満足する歳じゃねぇんだよ」
クレスの鼓動はこれ以上ないほどに早鐘を打っていた。彼女はこの突発的事態に頭が追い付いていない。鼓動だけが急加速して状況に適応しようとしていた。
「ちょ、ちょっと待って……。冷静になってよ、どう考えたってありえないでしょ」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「お前、俺を何だと思ってる」
「何っ、て……」
「何がありえねぇだ、馬鹿馬鹿しい。ありえねぇことなんかひとつもねーだろ」
クレスがこそこそととっていた距離を、ルレオはたったの一歩で詰めた。筋肉質な腕がクレスの髪に触れる。緊張が、息を吹き返した。
「ルレオ……!」
二度目のキスを、クレスは動転しながらも遮った。何か、うまい方法がある。この場を、この場で起きたこと全てをなかったことにする最善の策があるはずだ。クレスは未だにその「ありえない」考えを巡らせていた。無心で全力で拒否すれば、あるいは回避できたかもしれないが一歩遅かった。
ルレオの手加減のない腕に掴まれて、クレスは完全に抵抗する術を無くす。無駄に回転していた思考回路がその瞬間停止した。
「ルレオッ!」
もはやどうすればいいのか、考えるまでもなくクレスは叫んだ。張り詰めた形相で、悲鳴のように彼の名を呼んだ。ルレオは寸前でその手を放した。短い沈黙が訪れる。
「……悪かった」
何が起ころうと絶対に他人に頭を下げるような真似はしない男が、ゆっくりつぶやくようにその言葉を口にするのをクレスはぐちゃぐちゃに散らかった頭で聞いた。情けないことに両手が震えていた。その手を握りしめてスタートダッシュを決める。
「おい! クレス……!」
ルレオの横をすり抜けて一目散に階段を駆け降りた。そしてただ走った。呼吸をすることさえ半ば忘れてウィームの外れまでなりふり構わずに走った。街道の外れでようやく膝をついて立ち止まると、肩で息をした。
「何やってんだろう私……逃げたってなんにもならないのに……」
額から頬を伝って流れおちる汗、その感触さえ嫌悪してクレスは豪快に額をぬぐう。と、突然背中に悪寒が走った。代わりに高なる鼓動と呼吸、息を呑んでおもむろに顔を上げた。
クレスの視界の中でその赤い髪は、今日の青空によく映えて美しく揺れた。
「どうかしたんですか? さっきからぼやぼやして」
言葉のあやだろうが、フレッドはスルーせず露骨に目を吊り上げた。不躾な質問を繰り出してたミレイは、フレッドがへそを曲げた理由が分からずただ首をかしげる。
「何がぼやぼやだっ。ミレイこそどうなんだよ、予知の方は。ちゃんとアンテナ立ってんのか」
「ちゃんとビビっときてますよ。やっぱりこの島の魔法が予知を妨害してたみたいですね」
皮肉の表現で返したつもりだったが、ミレイにはさっぱり通用しなかったらしい。返された満面の笑みに毒気を抜かれてフレッドは諦めたようにそっぽをむいて嘆息した。
「さあて、どうしようかね? 艦は一応動かせるけど万全とは言い難い。面倒だけど一度ファーレン本土に帰還するのが得策だと思うけど?」
ギアがほとんど有無を言わさない確認をする。そこまで威圧的にならなくてもここで無理をする理由はひつもないのだ。殊この愛艦のこととなるとギアは躊躇なく極悪人になる。
「そうだな。一度様子見に帰ったほうが──」
「ちょっと!」
思わぬところから待ったが入った。
「待ってもらえますか? 今、何か……」
言いながらミレイの目は虚ろになっていく。分かりやすい合図を受けて、皆微動だにせず結果を待った。アンテナを立てた途端に何かを受信してくれたらしい、なかなかの感度である。しかしそれに対して、フレッドはすぐに渋い顔を作った。彼女の予知には──少なくとも今までの傾向からして──ある決定的な特徴がある。
「た、大変です……! フレッドさん、すぐにファーレンに戻りましょう!」
案の定第一声はこれだ。ミレイが予知することは百発百中で緊急事態、幸か不幸か外れた試しがない。
「ギア、ここからファーレンまで最高速度でどのくらいかかる」
「事態に間に合うのかどうかという意味でしたならその質問は不適当だ。最高速度で飛ばし続ければ1時間半ほどだけど、今の状態でそれは無理。今度こそ本当に海の真ん中に墜落するよ」
「だったら──」
できる範囲で急いで、どのくらいかと問いたかった。更にそれで事態にどう対応できるかを検討すべきだと思った。重要度がある程度判明しているから、その内容を二の次としたフレッドの判断は別段間違ってはいない。それにも関わらずミレイは再びフレッドの二の句を遮ると、顔を真っ赤にして金切り声をあげた。
「それでも……! 間に合いませんっ。接触は約一時間後、クレスさんと──死神です」
それは一直線に、フレッドの心臓部を貫いた。取りみだすミレイを今さらながらに見やってからだが強張った。
視界の隅で、ギアが至って平静に操縦桿を握る。足掻いて事態が好転しないと分かったのだから冷静になるのが先決だ。それを分かっていて実行に移したのがギアで、どうにも割り切れず唇をかみしめたのがフレッドだ。機体は誰に確認を取ることもなくゆっくりと離陸を始める。
「フレッドさん!」
「分かってるよ! けどここで俺たちが騒いだってファーレンにワープできるわけじゃないだろ!『今からじゃ間に合わない』って予知だったんだ、だったら落ち着いて今できる最善をやるしかないだろっ」
「正論。言動一致してるかは別としてね。はいはい、飛ばすからミレイちゃんも席についてねー、俺は乗客には気をまわさないよー」