God alone knows Chapter 21

独り言のように小声でぼやくと、ルレオはそれきり口をつぐんだ。だた空いた方の片手で犬を追っ払うときの動作を気だるく繰り返す。
「……別に、お前のせいじゃない。さっきはその、責めて悪かった」
「やかましぃ! 何度言わせりゃ分かるんだよ、いい人ぶってねぇで行けっつってんだろうが!」
フレッドは踏ん切り悪く最初の吊壁を通過する。後ろ髪惹かれる思いで半分だけ振り返った。
「必ず戻ってくる。それまで頼むな……、壁係!」
「ああ!?」
決め台詞かと思いきや、ルレオが身動きをとれないことをいいことに爽やかに毒を吐く。そして罵声を浴びる前に一気にスタートダッシュをきった。表面上は軽い方がいい。その代わりとばかりに全力で足を回転させた。ルレオが力を緩めればそれだけで次の壁が落ちてくる、そのパターンは考慮にいれないことにした。
 一本道がひたすら続く。分かれ道もなければ曲がり角もない。階段もなければ傾斜もない。それは塔の外観からすればまったくもって論外の構造であった。が、今はそれすらも些細な問題として片付けねばならない。
 いくつか吊壁を越えていくと、閉塞感しかなかった煉瓦の壁は途絶え、白い石の柱が並ぶ回廊に出た。大パノラマにふさわしい大海原が覗く。フレッドの速く走る分だけ、潮風が頬をたたいた。その通路の終わりでフレッドは足を止めた。今度は吊壁ではない、両開き扉が空間の境界線となっていた。夢中で息をする。呼吸が鎮まると同時に迷わず扉を押し開いた。
「クレス!」
 彼女はそこにいた。力なく座り込んでいるものの声に反応して顔を上げる。ただ言葉はなかった。唇が自分の名前の形に動いたように見えたが、クレスはそれ以上の動作をしなかった。できなかったと判断するべきか。彼女の傍らに、赤い髪の少年がひとり、立っていた。

 こうして至近距離で顔を突き合わせるのは初めてである。何度か姿は見ているし、話にも聞いている、その死神が今目の前にいる。不思議と恐怖心はなかった。
「はじめましてだよな。随分横暴なことやってくれるんだな、神様は」
適当な皮肉を吐いたあと、フレッドは躊躇いなく剣を抜いた。恐怖はないが緊張がある。全てにおいて早すぎる段階で判断を下す方がいい。
「クレスを返してもうらうぞ」
「……君も随分横暴だよ」
自分では気づかない間に、フレッドの怒髪天メーターはとっくの昔に振りきれていたようだ。都合上押し殺していた分までもが一気に爆発して、その矛先は死神に向けられる。地面に這いつくばるかのごとく上体をかがめて、標的のその小さな懐にもぐりこんだ。まずは一撃、間合いもスピードも完璧だったそれは呆気なく小さな右手に受け止められた。
「僕が君を待っていたのは気まぐれでも何でもない。クリスタルラインの一番の邪魔者は、早めに消えて欲しいからだよ。フレッド」
フレッドが続けざまに振りかぶった剣を死神はまた片手で、軽々と受け止めた。刃は確かに手のひらにめりこんだ嫌な感触があったが、一滴たりとも血が流れない。不気味さが混乱を呼び、フレッドの平静さを奪う。
 剣を引こうにも恐ろしいほどの力で阻まれた。見かけは膠着状態に陥ったように見えた。刹那、死神はフレッドの体を剣ごと引き寄せる。バランスを失いよろめく彼の首を小さな手で掴み、締め付けた。
「フレッド……、フレッド!」
立ち上がれいままクレスは叫んだ。苦痛に顔を歪めるフレッド、気道は完全に塞がれうめき声すら喉を通らない。力の抜けた手から、剣が滑り落ちた。
「君だってたくさんの罪を犯しながら生きてるんだよ。何かの犠牲の上に笑って立ってるんだよ」
 遠のく意識の中で誰かが視界の中をよぎった。壊れた映写機のように死神とその人影を交互に映し出す。
(……誰……?)
笑う死神ごしに見えるのはおそらく女で、よく知っているような全く知らないような不思議な感覚に襲われた。
「よく思い返してみなよ。“あの日”、大罪を受けるはずだったのが本当は誰か……とっくの昔に君は知ってたはずだよ。代わりに大罪を受けた妹を憐れむことで、罪を償った気になってるんでしょ」
死神の無邪気な言い回しがフレッドの胸中をかき乱した。その間にも視界に女が割り込んでくる。やはり、見たことのない女だ。優しそうな笑顔には見覚えがあったが、どうしても誰か思い出せない。
「随分先延ばしになってしまったけど今ここで、あの日の続きをやってあげようか。犯した罪の分だけの償いを……君に」
死神は掴んでいたフレッドの首に更に力を込めた。苦痛が意識を現実に連れ戻したが、すぐに薄らいでいく。頭の隅で自分の名を叫ぶ声がかすかに聞こえたが、それがクレスの声かそれともこの正体不明の女の声かはっきりしなかった。

 ──ねえ、私をひとりにしたりしないで。決してひとりで、遠くに行ってしまわないで──

 やけに鮮明に頭に響く。それは甘く、せつなく、やわらかく、子守唄のようにフレッドを包む。
「……ここにいるよ、どこにも行ったりしない。絶対に」
 一瞬噴き出しそうになった。知らない誰かが知らない女の問いかけに安易に答える。その知らない誰かは、細部までフレッドの声によく似ていた。

 ──私を永遠に愛することができる?“ラルファレンスの指輪”に出てくる二人のように──

「それは……難しいな。まず俺がお前を裏切らなくちゃならない。それから離れ離れになって……な? そうならないと分からない」
 男はかなり屁理屈屋のようで、女のロマンティックな思想を払いのけてしまった。けれど女は怒りもしなかったし呆れもしなかった。二人の間には他人には分からない暗黙の了解があるらしい。

 ──そうしたら、私が会いに行くわ。この時計で、何千何万の時を越えて……途中で息絶えても構わない。生まれ変わって、きっとあなたに会いに行く。私は待っているだけだったエイティシャとは違うの。私は──

 すっかり観客と化していたフレッドはそこで一気に諸々の器官を再活動させた。彼の視界に鮮明に映った男と、女と、そして時計。女は疑いようのないほど声から髪、目鼻立ちに至るまでクレスにそっくりだったし、握られていた時計はまさしく、あの懐中時計だった。
 途絶えつつあった意識と戦気を絞り出してフレッドは瞼をこじ開けた。事態は何も変わっていない。だがこうして苦痛を感じているということは、まだ巻き返せるということだ。
「フレッド!」
そして彼女の声も相変わらず耳に響く。力はほとんど残っていなかったが、フレッドは落ちた剣を足で手繰り寄せると地団駄を踏むようにして真上に跳ねあげた。酸素のまわっていない手でそれを握ると死神の胴を切りつけた。それが意表をついたのか、死神の力が緩み、ようやく呪縛から逃れることができた。
「……あれ、痛い……」
血の出ない傷口を不思議そうに撫でまわしている間に、フレッドは片膝を地につけて塞がっていた気道をこじ開けるべく何度も噎せた。濁った堰に僅かに血がにじむ。それをぬぐった時には死神も無表情に戻っていた。
 フレッドはおもむろに立ちあがると、睨みをきかせながらクレスの方へ後ずさる。耳をすませた。波の音と風の音、自分の呼吸と心臓の音、彼女の声と死神の声、それ以外に鼓膜をくすぐる異音があることに少し前に気がついていた。予測が正しいことを確信するため、息を止めて鼓動を鎮める。──エンジン音だ。フレッドは会心の笑みを浮かべた。



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