Previous Life Chapter 22

 寒さを感じないのはありがたい。が、海沿いを何十分か走ると普通に息が切れた。外部の影響はまったくもって受けないが、走っているのは自分なのだから当然だ。フレッドは理解はしたが理不尽さも覚え口をへの字に曲げた。
 視線の先に小舟の群れが停泊しているのが映る。切れる息を制して、もうひと踏ん張りとばかりに近寄った。
(あいつは……)
ぐるりと周囲を見渡す。船には、先刻の男が言っていたように女子供の割合が多い。それを除けば後は老人ばかりだ。乗り込む人々を誘導している若い男たちの中にランスの姿を探すが彼の姿はない。わかっていたことだから特にその事実に関してどうということはなかった。ここへはそれを確かめにきたにすぎない。
「嫌な……結末になるんだろうな……」
フレッドはつぶやいて、元来た道を悲しげに見つめた。推理小説を背表紙から読むような不快感を覚えていた。彼は遥か未来のことを既に知っている。渡されたピースとそれを足せば、自ずとそういう結末が構築される。この時点で夢から覚める気にはなれなかった。第一覚め方も知らない。そうなると、分かりきった結末をこの目で見届ける他ない。
「前世でも現世でもろくでもないことしかやらないな、自分で言うのもむなしいけど」
一歩一歩雪の絨毯を踏みしめて進む。また雪が徐々に激しさを増していたがフレッドにはどこ吹く風だ。ラインへ向かう道をフレッドは早足に進んだ。おそらく、というよりははるかに高い確率でランスはそこに居る。
 フレッドの根拠のない予知は、者の見事に的を射た。ラインに走る登山道は今しがた除雪されたような跡があり、それに沿って登っていくと見晴らしの良い高台に彼の姿があった。ランスをはじめ、若い男たちが数人使いなれない剣や槍を抱え込んで岩陰に座り込んでいる。
「ランス、お前本当にいいのか? やっぱり船に乗るべきだよ。こんなところ残ったって……いいことなんてひとつもないぞ」
その中のひとりが白い息を立ち上らせながらランスの隣に座り込んだ。
「何を今さら。俺はラインを守る役目を誇りに思ってるし、この島が好きだ。ここを戦場になんてしたくないんだよ。……例えそうなっても、命に代えても外の奴らには渡さない」
「滅多なこと言うなよ、ソフィアが泣くぞ」
「まさか。そんなやわな女じゃないよ、あいつは」
「……それもそうか」
精鋭二十名、長老連中をのぞけば残りはランスと大差ない青年ばかりだ。ラインの一角で会話を交わすランスと村の若者を、フレッドは遠巻きに眺めていた。彼はここで、ラインの守人として残る道を選んだのである。今までのやりとりから察するに、ランスはその中でも優秀な人材のようであるからこうすることも自然のように思える。あの時計を作った男が、島を捨てて逃げるはずもなかった。
 ランスはふと白く濁った空を見上げた。更に白い息が、ふわりを上空に溶ける。
「また……吹雪きそうだな」
唸るように風が鳴く。雪がその度に空中で混ざり合い視界を白く染める。
 ──時は世界戦争の真っただ中。戦場は世界中、敵は全人類。その中心地、北の大陸そして彼らラインの守人。彼らは誰も結末を知らない。その結末の引き金を引いた男がここに居ることさえも。
 見届けなくてはならないという、手も足も出せない役回りと嫌な使命感を持ってしまった。すぐそばでは双子のような顔立ちの前世の自分が、右往左往して周囲に指示を出している。ランスが自分より優秀であることを察するのは思った以上に癪にさわった。しかしその類まれなる優秀さが、フレッドの大罪の素になる。そのことを彼はもう知っていた。
「ランス! ラーンスッ!」
犬の遠吠えのような村の青年の叫び声に、ランスは緊張を走らせた。喘ぎながら走り寄って来た青年は呼吸を整えるのもそこそこに、ひどく掠れた声で続けた。
「ランスッ、急いで……船着き場に……っ。海を見ろ! はやくっ」
青年の気はすっかり動転していて、息を吸うのと悲鳴のように声をあげるのとがうまくかみ合わず聞きとりずらい。しかしその尋常でない形相から事の重大さは何となく伝わった。導かれるままに海岸を一望できる岬に歩を進める。
「なあランス……! 何が、何が起こってるんだよ、どうなってんだよぉ! ……世界の……終わりだ……」
 青年は力なく四つん這いになった。ランスはただ、目に映る光景の全てを否定するしかなかった。そうでなければ発狂してしまいそうだった。フレッドは微動だにしないランスを追いこして、彼らより一歩前に出る。フレッドだけが冷静に真っ直ぐに、その真実の光景を受け入れるため目を凝らした。
「ちくしょう……! ちくしょう!」
青年は声を殺して泣いた。声を上げる気力と体力がもはや残されていなかった。柔らかいはずの雪を殴りつけ、血がにじむまでそれを繰り返し顔をうずめた。
 雲に覆い尽くされた暗黒の空に、一切の歪みを許さない黒い海に、美しく妖艶に、紫がかった光の壁が聳えている。それは海を裂くように一直線に走っていた。おそらくは星の裏側まで途切れることなく周回しているのだろう、ランスは視覚情報だけでそんなことを思った。
 第一のラインから千年、二つ目のラインが産声を上げる。
「ラァンス! 大変だ……、船が、村のみんなが乗った船があの光の中に入っちまった! みんなあれに……!」
たたみかけるように別の男が別の情報を持ってやってくる。それはもはやどうでもいい内容だった。ランスにもう生気はない。彼は賢かった。それ故に、誰よりも早く事態の全てを呑みこまざるをえなかった。
「何やってんだよ! 行け! ソフィアもあれに乗ったんだろ!」
男の叫びが虚しく空気を裂く。その通りだ、ソフィアはあの船に乗った。他の者に嘘をつかせてまでランスが乗せたのだ。そしてその船は今光の中にいる。全てを呑みこむ神の光の中心に。
「敵襲だぁぁぁ! 船着き場がやられた! 全滅だ! 敵襲! てきしゅうぅぅ!」
また別の声が轟く。そしてまたどうでもいい情報を広げていく。しかしそう思っているのはランスだけで、他の者はみな最後の希望にすがって立ち上がり始めた。すぐ隣で崩れ込んでいた青年もゆっくりと体を起こす。
「ま、守らなくちゃ……島を。ライン、を……」
よろよろと立ちあがり剣をとろうとする青年に向けて、ランスは嘲笑を送った。滑稽でしかなかった。押し殺していた声を突然張り上げて、空を見上げて笑った。狂ったように涙を流して笑い続けた。
「ラ…ランス……?」
「守る? 島を? ラインを? ……守ってどうするのさ、どうせ全員死ぬんだぜ? 大陸の奴らも、村のみんなも、お前も、俺も!」
──ソフィアも。
「俺が全員殺したんだ、ぶっ壊したんだよ! 今さら何を守るってんだ!」
紫の光がランスの視界を一色に染めていた。彼は聡かった、だから与えられたピースだけで知ってしまった。自らの犯した、死しても償えない罪の正体を。
「俺が……俺が殺したんだ。あの時計で、全部……ぜんぶ……」
 時間はこの世界の唯一のルールだった。神でさえも破ることのできない、絶対のルールだった。ラインの守人はそれに干渉することが許された特別な種であった。中でもとりわけ優秀な者が、時間を操る術を作り出してしまった。神は全てを見ていた。だからこそそれを利用し、この世界を見限ったのだ。
 ランスは頭を抱え地面に打ち付けた。毒のように輝く世界をこれ以上視界に入れないために。
「ランスよせ! まだ望みはある!」
止める男を殴りつけてランスは再び高らかに笑った。あの光は彼が手引きした第二のラインだ、そこに望みなど万に一つもない。神はソフィアに何と言って針を回したのだろう、それともソフィアの「手」だけ用いたのか? 笑いながらランスは周りとはレベルの違う絶望をひとり抱いていた。
「ランス! 神が我々をお見捨てにならない限り望みはある! 諦めるな!」
なんて稚拙で浅はかで、滑稽な台詞なのだろう──そう思うと笑いが止まらなかった。神はとっくの昔にこの世界を、人間を見限っている。それすらも気がつかないとなると、やはり人間は頭の悪い生き物なのだ。
「……見届けてやるよ、この世界の終わり」
独りごちらランスを見限ったのは村の男たちの方だった。喚いたいた方も嘆いていた方もかぶりを振ってその場を後にした。彼らにも彼らの愛する家族や友人や愛する人たちがいて、その人たちを守りたいと思うのは当然のことだった。その全てを無くして立ち尽くす男のために、これ以上時間は裂けない。
「まるで『ラルファレンスの指輪』だな。俺はソフィアを騙して船に乗せた。……神は激怒し、ラルフを遠い過去へエイティシャを遠い未来へ追放した」
ランスは『ラルファレンスの指輪』の一節を淡々と暗唱した。視界では生まれたてのラインが、オーロラのようにしなっている。
「……神か。……俺はあんたを、許さない。死んでも、来世でも、未来永劫あんたを呪う、呪い続ける……! この世界と俺を生んだあんたを恨み続けるよ」
 紫のゆらめきが、途絶えた。一瞬、しんと辺りが静寂に包まれる。ランスは渇ききった瞼をおもむろに閉じる。轟く爆音、広がる閃光、それらは全て刹那にしてはじまり、終わった。滅ぶ世界と肉体の間で、ランスは確かにその耳で聞いた。
 時計の針が進む音を──。


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