夜が更け、皆が寝静まった深夜、フレッドは尿意に目を覚まし用を足す次いでとばかりに兄の様子を看に階段をくだっていた。時間が時間である、物音を立てないように慎重に歩を進めているさまは傍から見ればコソ泥か兵士の亡霊のようである。
扉はきちんとしまっておらず、十センチほどの隙間から直線状に光が漏れていた。中からかすかに話し声が聞こえる。
「こうやって二人で話すのは、ずいぶん久しぶりよね。まったく……まさか新婚早々こんなでたらめなことになるなんて思いもしなかったわ。浮気のひとつやふたつは仕方ないと思ってよね」
フレッドは立ち止まった。盗み聞きをする趣味はなかったが入るに入れず、去るにも去れない。ドアの手前で金縛りにあったように、結局一歩も動けないでいた。
「そうだな。君を巻き込んだことは本当にすまないと思っている。こうして今ここに居てくれることが不思議なくらいだ」
「格好つけちゃって。結果これならいい迷惑だわ。あなたは過信しすぎてるの、ちょっとは分かった?」
フィリアは躊躇なく思うがままを口にする。スイングの上から物が言えるのはギアを除けば彼女くらいのものかもしれない。
「……そしてひとりで背負いすぎ。私はもっと……もっと巻き込んでほしかった。これじゃあ何のために私がいるのか分からないじゃない」
小さく嗚咽が漏れた。静かに涙を流すフィリアにスイングは何もすることができない。それは意識の問題などではない。彼女を抱きしめることも、その瞳から溢れる涙をぬぐうことも、今のスイングにはできないのである。ただその光景を目をそらさず見つめる他ない。
「返す言葉もない。……俺はこの先、君を幸せにする自信がない。これこそが俺に与えられた『大罪』なのかもしれないな」
フィリアは俯いたままで必死にかぶりを振った。とめどなく流れる涙が言葉をせき止める。フィリアはそれでも懸命に伝えようとした。今まで積もり続けた思いや、不安、誰にも吐き出せなかった胸のうちを。
「違うの、そうじゃないの悪いのは私。スイングがこうなってからいろんな人が動いたわ。今日集まってくれたみんなやベオグラードさん、この国の人たちまで。それに比べて私ときたらね、悲劇のヒロインぶって家に閉じこもって何もしようとしなかった。あなたを助けてあげられるのは、私しか居ないのにね」
スイングは重い首をゆっくりと横に振った。フィリアは、微笑んでいた。まるで子どものように無邪気に。
「俺のためにそんな風に泣いてくれるのは、フィリアだけだよ。……それだけで俺は……救われる」
フィリアの顔はすべてを包み込むような優しい笑みに満ちていて、それがとても美しく輝いていた。ゆっくりとベッドに手を伸ばして、微動だにしないスイングを抱きしめる。フィリアが髪を撫でるのを目を閉じて受け入れる、今度はスイングの方が子どものように見えた。
「あなたの弟は、凄いわ。気づいたでしょう? 凄く強くなった。力とかそういうのじゃなくて、何て言うのかな……目が。私の知っているフレッドはもういないみたい。浮気してもいいかなって思わされたわ」
まぶたを閉じたままスイングは微笑をこぼした。意外な反応にフィリアは目をしばたたかせる。
「それで? 浮気は成立したのか?」
「……やめといた。他の人になびいてる男なんて興味ないもの」
冗談とも本気ともとれるフィリアの曖昧な言い回しにスイングはまた笑みをこぼす。
このときドアの向こうではフレッドが赤面した顔を覆っていた。ひと様の憩いのときを盗み見た代償だろう、物音を立てぬように踵を返すとそそくさと退散した。迅速に、且つ早足で廊下を進む。曲がり角にさしかかった直後──。
ダン! ──壁に力任せに手をついた拍子に、大きな音が静寂を裂いて響いた。が、フレッドが重視したのは他者の安眠を妨げたかどうかではない。視界が白くかすむ。何度かこすっても晴れない白いもやが視界全体を覆っていた。そのせいで平衡感覚を失って、咄嗟に手を突いたのである。
(なんか変だ……最近)
一度固く瞼を閉じた状態で床を見つめる。前にも、北の大陸に向かう船の中でも同じことがあった。あの時も何の前触れもなかった。
急に妙な胸騒ぎが走る。次に目を開けたときの恐怖がフレッドの鼓動を早めた。立ち止まって五分、フレッドは見切りをつけたように目を開け、顔を上げた。視界には見慣れた長い廊下があり、その色も形もランプの明かりの下とはいえはっきりしている。
ほっとしたのもつかの間、今度は別の恐怖がフレッドを襲った。鼓膜をくすぐる聞きなれた旋律、それを奏でるピアノの音。
(おいおい夜中の三時だぞ……! 誰がピアノなんか弾くんだよ)
おさらいしておこう、真夜中に城内を徘徊するのはコソ泥か兵士の亡霊か、のそき趣味の変態野郎のいずれかだ。フレッドが後者に当たるので今流れてくるピアノの奏者は、コソ泥か、
(兵士の亡霊!)
ということになる。怖いもの見たさでフレッドはおそるおそるピアノのある大広間に近づいていった。亡者の奏でるメロディにしては、どこか繊細で美しい。生唾を飲み込んで、フレッドは扉を静かに開けた。とたんに音楽が途絶える。亡霊にも一応の警戒心はあるらしい。
「……誰かと思えば。こんな真夜中に何やってんの? はっきり言って不審よ」
グランドピアノの陰から顔を出したのはえらく血色の良い健康そうな亡霊、ではなくクレスだった。近くに兵舎がないからといって真夜中にピアノを弾くような女に言われたはないセリフだ。フレッドは後ろでに扉を閉めた。
「そっちこそ……さすがにコレはどうかと思うぜ」
半眼で高級ピアノをはたくとフレッドは手ごろな椅子を探す。
「ちょ、ちょっと!」
「ああ、気にせず続けて続けて」
クレスの腰掛けていたピアノの椅子、その端に逆方向に座る。隣に座られてさあどうぞ、といわれてもやりにくいことこの上ない。クレスは嘆息して諦めると、鍵盤の上に指を乗せた。リクエストは不要だ、フレッドが聴きたがっているのは、いつも決まってこの曲『ラルファレンスの指輪』である。不気味なくらい静かに、フレッドはクレスの演奏を聴いていた。曲が終止符を迎えるまで、身じろぎひとつしなかった。
最後の一音が響く。その響きが消えるころ、クレスが息をついて両手をひざの上に乗せた。フレッドはまだ頭を下げたまま余韻に浸っている。
「あの……」
「悪いと思ってる、前世のこと何も話さないこと」
「まだ何も言ってないじゃない。……でも、そういう、ことなんだけど」
フレッドもクレスも席を立たないから隣同士に座ってはいる。座ってはいるが互いに逆方向を向いているから視線が合わない。それが今は双方にとって都合が良かった。
「フレッドの前世に、私が何か──」
言葉を遮るのも二度目となると気が引ける。フレッドはただかぶりを振った。背中を向けているとはいえすぐ隣でそうされれば十分に伝わる。だからクレスは自ら続きを飲み込んだ。
フレッドは実のところこうも考えていた。あの時計は前世の自分が、前世のクレスのために作ったのだと知ったらどんな顔をするだろうか、興味がなくもない。しかし考えるだけでやめておく。それは「今」の自分たちにとって決して良い影響を与えはしない。
クレスはふと立ち上がってピアノの大蓋を丁寧に閉めた。
「まるで『ラルファレンスの指輪』だよな……」
「は?」
ようやく目が合った。フレッドがこれでもかというほど笑顔をつくって、先刻までクレスが座っていたスペースを二、三度はたく。つまりは、彼女にもう一度隣に腰掛けるように促しているのだろう。クレスは苦笑いでやんわり拒否を示すも、フレッドは有無を言わさず同じ動作を繰り返した。クレスが観念して座る──今度は同じ方向を向いたため、なおのこと落ち着かない。
「クレスさ、『ラルファレンス』の原本は知らないって言ってたよな。あれはいいぜ、リオーズの歌劇よりずっとな」
「……シルフィの家にあったのがそうなんでしょ? 不思議な話よね。お話はシルフィが、音楽はフレッドがそれぞれ別の大陸で原版を持ってるなんて」
意表をつかれて一瞬目を丸くした。よくよく考えるとそれが不思議なことではない、ということに対してである。『ラルファレンスの指輪』の作曲者は北の大陸出身者なのだろう、そう考えればフレッドの手元にその原版があっても不思議ではない。クレスが、北の大陸で作られた時計を持っているのと同じ原理だ。