「歌劇の『ラルファレンス』はフルート独奏で始まる第一楽章『祝福』から、バイオリン三重奏の第二楽章『没落』、フィナーレの『瞬間』に続くよな」
「? そうね。私はラストでエイティシャ役が歌うラルフへの歌が好きなんだけど」
「ああ、あれはいいよな。あの歌はリオーズが歌劇にするときに書き下ろしたんだ、原版には無い」
こんな風にゆっくりと雑談をするのは随分久しぶりか、もしくは初めてかもしれなかった。何が好きだとか何が嫌いだとか、そういった他愛も無い話をした覚えが無い。覚えは無いが、互いに何となくそれらを理解している。だからこそこうして前置きなしに話題がふれる。
「歌劇だとエイティシャが歌った後、時間が戻って二人が再会、ハッピーエンドーってなるよな。そこが違うんだ、ラストがさ」
──狩人ラルフは糸紡ぎの娘エイティシャと結ばれる。神は二人を祝福し、ラルフに輝ける栄光を、エイティシャに至福の富を授けた。そして二人に、永遠の愛を紡ぐ指輪を送った。歴史は静かに動き出す──
ラルフは誠実謙虚な青年で、森の動物を狩って生活を営んでいた。必要以上の狩りは決してせず、自分が生きていくための最低限の食糧だけを蓄えるようにしていた。質素で平凡な日々だった。そんな彼が心を寄せていたのは、村娘エイティシャである。彼女もまた、毎日糸を紡ぎ、出来上がった布を売り、家族を養っていた。自分を飾るものは一切身に付けない清廉潔白な優しい女性だった。二人はその日常を良しとして、多くを望むことはなかった。やがて二人は互いに惹かれあい、多くの村人に祝福され結ばれるのである。
「ラルフ役の人ってなんでかいつも三枚目じゃない? エイティシャ役はやたら美人なのに」
フレッドが語るおなじみのストーリーに、クレスが身も蓋も無い横やりを入れる。フレッドは話の腰を折られ眉をひそめるが、適当に流して続けた。
神はそんな二人を誰よりも慈しみ、贈り物としてラルフに貴族の称号を、エイティシャにたくさんの宝石を与えた。見たことも無い綺麗な装束、豪勢な食事、何不自由のない生活が二人に訪れた。そして神は最後に、二人の愛のしるしとして指輪を贈った。それはエイティシャが授かった宝石の中でも一際輝く、欠けることも色あせることもない不思議な石だった。
「ここで第一楽章『祝福』が終わる。続いて第二楽章『没落』、重低音のコントラバスから固めのティンパニーが重なる」
──狩人ラルフは糸紡ぎの娘エイティシャを裏切った。神は激怒し、ラルフを遠い過去へエイティシャを遠い未来へ追放した。二人は永遠に出逢えず時をさまようこととなる。歴史は再び歩みを止めた──
二人はすっかり変わった自分たちの生活に酔いしれた。ラルフは娯楽として狩りを楽しむようになり、エイティシャは有り余る金銀財宝に身を包み糸を紡ぐのをやめた。毎日浴びるほど酒を飲み、金をばらまいた。
そして二人の運命を変える出来事が起こる。ラルフは享楽に溺れ、貴族の娘と一夜を共にする。指輪はどす黒く色を変え、石の端から無数の亀裂が走った。神は二人の過ちを知り、罰としてラルフを遠い過去の世界へ、エイティシャを遠い未来の世界へ追放した。二人が二度と出会うことのないように、決して埋めることのできない距離を作ったのだった。
ラルフは自らの犯した過ちに気づき、エイティシャの居ない世界を嘆き自分を責めた。ただ色あせた指輪だけがラルフの手元に転がっていた。ラルフはその指輪を握りしてしめ、声が枯れるまで泣いた。過去に来て数日が過ぎても彼はその場から一歩も動くことなく、ただ彼女の名を繰り返し呼んだ。届きもしないかすれた声で何度も呼んだ。やがて声は聞こえなくなる。ラルフは衰弱し、天に召された。指輪を固く握りしめたまま自らの罪と共に。
遠い過去に飛ばされたエイティシャも自分の傲慢さと醜さに懺悔を繰り返していた。毎日神に祈りをささげ、また糸を紡ぐ。指がぼろぼろになるまで終わることのない糸を紡ぐ。
「『没落』がここで終わりでしょ。歌劇だと、第三楽章はエイティシャの祈りの歌から始まるのよね」
──狩人ラルフは死のうとも、指輪は娘に贈られる。何千何万の時を越え、古びた指輪は贈られる。神よ、それでも二人は会えぬのか。神は再び針をまわす。歴史が今、時を越えた──
エイティシャの紡いだ糸の先に、ある日何かが引っかかっているのを見つける。土にまみれた薄汚れたそれに、エイティシャはひどく懐かしさを覚えた。あの指輪だった。祝福を受けたあの日と同じように輝き、虹色の光沢を放っていた。指輪はラルフが死んでも土に還り、何千年、何万年と眠り続けていたのだった。こうして指輪はまたエイティシャの元に帰るのである。エイティシャは指輪を握りしめて涙した。かつてラルフがそうしたように。同時に悟った。ラルフの溢れんばかりの愛とその死を。
「二人の涙に心を打たれた神は、ラルフとエイティシャを元の時間の流れに戻してやる。そして二人は自分たちの過ちを悔いて、元通り質素でラブラブな生活を送りましたとさ、ってのが歌劇のハッピーエンドね」
クレスは無言で続きを促した。
「本当はさ、神は二人を許さないんだよ。だけど最後の慈悲として、エイティシャが老いて亡くなる直前にラルフをエイティシャの居る未来に飛ばすんだ。そこで二人は一緒に死を迎える、そういうラスト」
「それって……世に出回ってる『ラルファレンス』とは随分違うわよね? なんていうか、悲劇的というか。そっちの方がフレッドは好きなわけよね?」
クレスの素直な反応に、フレッドは思わずこらえていた笑いをこぼした。嫌味な笑いではなかったはずだが、それでもクレスは心外そうに口をとがらせる。
「その先ずっと輪廻が続くんだ、二人。何度生まれ変わっても同じ時代で同じ歴史を生きていく。……そういう輪廻ならいいなって、そういう運命なら……いくら続いてもいいって思った。『大罪』みたいに嫌なもんが来世に続くんじゃなくてさ。この話が……俺を支えてきたんだ。今まで、ずっと」
フレッドの脳裏にふとウィームの教会がよぎった。赦しを請いに、救いを求めに、幼い足で教会への道を走ったあの日。フレッドを『大罪』の恐怖から救ったのは神でも、その使いでもなく音楽だった。この『ラルファレンスの指輪』という、美しく切ない物語だった。
「このままだと俺の来世って大罪受けるんだろうな。特にここ最近なんてめちゃくちゃなことしかやってないし」
「そんなこと……」
否定を途中でやめる。根拠がないし、何よりクレスも自身の来世について一瞬だが思いをめぐらせた。そんなことをしても意味が無いことは分かっている。
「そういえばさっき『まるでラルファレンス』って言ったじゃない? どこがどう似てるの? っていうか何が?」
ひとまず話題を変えようと気になっていたことを口にした。最近のフレッドはひとりで勝手に悟りを開いて満足している傾向にあるから、口に出したことくらいは説明してもらいたいと思うのは当然だ。フレッドは案外に、すぐに応えた。
「……俺たちが」
クレスは何も言わない。それが少しだけフレッドには意外だった。
「あの時計が……俺にとってのラルファレンスの指輪だった」
正確にはランス──前世のフレッドの愛のしるし。
フレッドがどこまでも真面目にまとめたにも関わらず、クレスは今度こそ笑いを噴出した。これには意外を通り越して心外だ。
「それこそ冗談じゃないわっ。私がエイティシャ? ならフレッドに裏切られた挙句一緒に死ななきゃなんないじゃない。頼まれてもごめんよ。それに私、エイティシャって好きじゃないの。ラルフを待ってるだけで何もしてないじゃない?」
今度はフレッドの方が、派手に笑いを噴出した。眉尻をさげて腹まで抱える。
「何なのよ!」
「いや……! やっぱりそうなんだなって」
かつて同じセリフを言った女をフレッドは知っている。同じ顔と同じ声で。フレッドは胸中でまた、『ラルファレンスの指輪』の通りだと確信していた。今、同じ時代、同じ歴史にクレスがいる。この輪廻なら続いてもいい、そう思った。
フレッドは初めてこの部屋の扉を開けたときのことを思い出した。あの日も同じように、このピアノで、彼女ので指で、あの旋律が奏でられたことを思い出した。