「親方ぁ! どこにいるんすかぁ、返事してくださいよぉう!」
ベルトニア港で唾を撒き散らしている巨漢の男が、薄汚れた作業服に身を包んで辺りをきょろきょろと見回している。周りには彼と同じような井出達の男たちが右往左往していて、その誰も彼もが額にうっすらと汗をにじませていた。
「悪い悪い、呼んだ? あぁ、クレス隊長なら昼ごろこっちに顔出すってさ。サインでも握手でも頼むといいよ」
駆けつけたギアの周りで拍手と歓声が上がった。熊男もつられて締まりなく笑う。
熊男──クレスがかつて自分勝手に付けた彼のあだ名だ。
「ひゃっほう! ……じゃなくてぇ、強化装甲用の薬品が足りねぇんですよ。ほら例の……」
「は? 足りない? なんで」
熊男の頬に冷や汗が伝う。ギアの冷たい視線が容赦なく刺さった。
「い、いや俺は余分に積めって言ったんすよ! なんでかなっ、はっはっ!」
「俺はお前に頼んだはずだ。他の奴のことなんかどうでもいいよ、なんで足りないの?」
冷や汗は滝のように流れて熊男の顔を青白く染めた。見つめあうこと数秒、男は地べたに這いつくばって土下座する。周りの作業員は助け舟も出さないでそれを遠巻きに見ていた。
「すんませんっ! チェックミスでしたぁ! 勘弁してください!」
他者はそそくさと逃げるように作業に戻る。皆この後起こる惨劇を予想しての行動だ。熊男の目は潤んでいる上、巨漢はかすかに震えていた。
港にいるのは全員ギアの部下(手下)たち、イズトフで違法ハーレム戦艦を手がけていた利き腕の技術者だった。ギアはベルトニア王に彼らを呼び寄せるよう依頼したのである。ハーレム戦艦は、ギアが持ち出したおかげでファーレンを救った伝説の革命艦となり、そして今また、その翼は死神討伐の要・無敵の強化装甲艦として生まれ変わろうとしている。その作業に既に二ヶ月を要していた。
そう、二ヶ月だ。スイングが目を覚ましてからそれだけの月日が過ぎた。恐ろしく平凡な日々だったが、この艦の製作が続けられている限りは真の平凡とはほど遠いことは知れている。
「何してるの? ……差し入れ、持ってきたんだけど」
今日に限っては救世主がやってきた。しかも飯付きで、だ。クレスが馬鹿でかいバスケットを抱えて引きつった笑みを浮かべている。それもそのはず、ギアが巨漢の男に馬乗りになってノコギリを振りかざしているのだから、突っ込まざるをえない状況だ。気づいたギアが咄嗟に凶器を投げ捨てて穏やかさを取り繕った。
「やあクレス、忙しいところ悪いね。みんな君に会いたがってたんでさ。言ったろ? ファンだって」
「別に忙しくもないわよ。サンドリア隊長とちょこちょこ打ち合わせしてるだけで、馬鹿みたいに平和だからやることもなくって」
「それが一番だよ。クレスたちが忙しいときは良くないことが起こってるってことだからね」
ギアの言葉にクレスが微笑する。先刻まで薄情にも、惨殺される寸前の仲間を見捨てて作業に没頭していた連中も、気づけば二人に注目して手をとめていた。のたれ死んだままの熊男も、だ。しかしギアが言うような憧れのまなざし、というわけではない。連中も混乱しているようだった。目の前で「クレス」と呼ばれている女は初対面ではない。忘れるはずもない、夢のハーレム戦艦を強奪していった宿敵の女だ。
「みんなお待ちかねの女護衛隊長さんが来たよー。……って今さらか、知ってるよね」
クレスも流石に派手に苦笑いするだけだ。顔を隠そうにも、人数分のサンドイッチをぎゅうぎゅうにつめたバスケットは、重すぎてそこまで上がらない。
「あ、あ、あんたが、ひゃ、百戦錬磨のクレス!? あの、ファーレン初の女隊長……? 俺のロマンを掻っ攫っていったお前がぁ!?」
「その節はどうも。あなたたちには本当に悪いことをしたと思ってる、謝ります。でも……すばらしい艦よ。強化作業も、安心して任せられるわ」
熊男は生気が抜けたように真っ白になって干からびている。とっておきの低姿勢も功を奏さなかったようだ、クレスは申し訳なさそうに項を掻いた。その一方であっさり順応した者も少なくはない。
「そうだったんですかぁ! そうならそうと先に言ってくれればいいのにっ」
「お会いできて光栄っす。まさか自分たちの艦を持ってったのがクレスさんだったなんて、いやー、やっぱりやることが違うなぁ!」
作業は必然的に一時中断、工具片手の技術集団がクレスを囲んで群れを成す。余った方の手にはどこに用意していたのか色紙を握って。
「え、えーと、ファーレン護衛隊長のクレスですっ。これ、差し入れ」
再び拍手喝采、指笛が鳴り響く。バスケットを置くと、飢えきった男衆が我先にと詰められたサンドイッチを奪い合う。ちなみにこれはクレスの手作りでもなんでもない。
と、ひとりぼろ雑巾のようだった熊男が顔に似合わず赤面して深々と頭を下げた。
「クレスさんとは知らず……その、暴言ばかり吐いちまって……」
確かにこの男には散々に罵られた。しかしそれはこちらも同じだ。
「気にしないでください、私こそ失礼な真似を。あの艦は期待以上のすばらしい艦だったし、今回のことも……頼りにしています」
「うぉお、滅相もないっす。いやぁ、まさかこうしてきちんとお話できるなんて夢にも──」
「そう、滅相もないよね。お前は今回のミスの責任をとって今からベルトニア湾に沈むんだから、最後に夢がかなって良かったな」
ギアが喜色満面に再びノコギリを握りしめる。和やかなサンドイッチピクニックは、その瞬間に惨劇の第二幕に変わろうとしていた。場のただならぬ空気を読んで、クレスが慌てて割ってはいる。
「何かあったの? とりあえずノコギリは置いてよ、危なっかしい」
勢い任せにギアからノコギリを奪い取ると、作業員たちも胸をなでおろす。誰も〝親方″には逆らえない手前、クレスの行動は冷や汗ものであると同時に真の助け舟だ。
「強化コーティングに使う薬品が足りないんだ。特別仕様だから代用できない。こいつの! せいで!」
武器を没収されたので拳で代用を済ませるギア。鈍い音がリズム良く響いたが、こればかりはクレスも止める手段を持たない。
「どうするの? それがないと飛べないんでしょ」
「そういうわけじゃない。今までだって飛んでただろう? ただ、そいつがあるのとないのとじゃ耐久力にかなりの差が出る。少なくとも俺が承諾しない程度にはね」
ギアの承諾の云々が凡人にとって指標になるかといえば話が別のような気もしたが、クレスは黙って頷くしかできない。
「取りに行くしかないか……。コレクションの中にまだあったしな」
自己完結するギア。疑問符を浮かべるクレスに作業員のひとりが耳打ちしてきた。
「(親方すごい薬品コレクターなんですよ。家の横に専用の倉庫が二、三軒あるくらい)」
なるほど、スイングを回復させるための薬の調合などお手の物のはずだ。クレスはすぐに納得して、おびえた口調の作業員をなだめた。
「ねえ、それ私もついて行っていいかな。邪魔じゃなければ」
「ああ、いいけど……暇だと思うよ。たいして面白くもないし」
ここよりはマシだ──ベルトニア国王には悪いが、クレスは本音ではそう思っていた。もう一度言うが空母の強化作業に取り掛かってから二ヶ月が経っている。ファーレン護衛隊長である彼女にとって、このブランクは長すぎた。察してギアが苦笑した。
「明日イズトフに出航するから準備しておいで。フレッドたちも誘ってくるといい、腐ってるんじゃないかそろそろ」
「ありがとう。国王にもそのように報告しておくわ」
クレスは背中越しに手を振ってさっさと城へ舞い戻っていった。後に残ったのはサンドイッチの食べかすと、残念そうな彼女のファンたちだけである。
「……軍人は天職だな、ありゃ」
独りごちてギアも作業に戻った。