ミレイの細い首に氷のように冷たい何かが絡みついた。死神の五本の指が、凄まじい力でその頸動脈を押しつぶす。その小さな手ではミレイの首の半分ほどしか回らないにも関わらず、いくらもがいても振り払える気配はない。次第に宙に浮く自分のからだを見て、ミレイは呻きながら足をばたつかせた。
「なん……で」
ミレイの予知に狂いはなかった。その通りに死神は手を伸ばしたしミレイもそれを確認した。が、気付いた時には既に呼吸が困難な状態だった。察知しても回避できる瞬発力が無ければ意味がない。彼女の場合、集中力よりも先に体力が底をついたのがあだとなった。
「苦しい? それとも悲しいかな。これで分かったよね、自分がどれだけ役立たずな人間か。……お前は箱庭には要らないよ」
ミレイの瞳から涙があふれて頬を流れた。息ができない、己の非力さと死神の言葉さえ否定できない弱さが彼女の気力を奪う。
「私、だって……!」
ヴィラを後にし、フレッドたちと行動を共にするようになってからずっと心に引っかかっていたことがあった。予知はあくまで予知に過ぎず、それが未来を大きく左右する引き金になってはならない──ミレイの心の中にある幼いころから言いきかされてきた戒めのひとつだ。だとしたらこの力は何のためにあるのか。祖母は何を思いベルトニア王に仕えたのか。そしてフレッドたちに自分を同行させたのか。
答えを知るためにミレイは自らを引き金にした。
「ルレオさん! 上方60度、絶対に当たります!」
声を振り絞ってミレイは叫んだ。いつもは思いもしない自分への自信で笑みがこぼれる。ルレオの放つ矢の行く先も、すぐに駆けつけてくるフレッドたちの姿もミレイには視えていた。
「ミレイ!」
矢は死神の二の腕を貫いてその力を奪う。同時にミレイが地面に崩れ込んだ。既に意識はなく、ぐったりとそのまま横になった。
「何やってるかと思やぁ……またえらいのとデートしてんなぁ、あの女」
命中したのが嬉しかったのか、うすら笑いを浮かべるルレオ。普段なら調子に乗ってもう5、6発連射しているところだが、そんな気力も体力も残ってはいない。一方で完全に意表を突かれた死神は、矢の突き刺さった自分の二の腕を不思議そうに眺めている。やがて興味が失せたのか矢を引き抜くと視線を「彼女」に向けた。
「見ーつけた」
裂けんばかりに口を開いて笑う。見開かれたその目を見て、全員背筋が凍った。ルレオ以外派手に負傷している者はいない。それなのに立っているのが困難だ。微かに膝が震えているのを見て見ぬふりで誤魔化した。
「メインキャストが……そろったね」
悠長に恐怖を噛みしめている場合ではなかった。フレッドは震える足に鞭うって、反射的に抜刀した。焦りが衝動となってフレッドを突き動かす。がむしゃらに叩きつけた剣は無論死神に容易に受け止められてしまった。
「ボケっとしてないで逃げろ! 分かってんだろ、狙われてんのはお前だよ!」
放心していた連中もフレッドの一喝で何とか我を取り戻す。標的であるクレスは、フレッドの忠告を無視して厳かに剣を抜いた。その気配でフレッドが舌打ちした。
「シルフィ、ミレイ連れて先に行け! ルレオ! 分かってるよな!」
受け止められたままの剣にフレッドは渾身の力と全体重をかけた。かすり傷ひとつ負わせられないが、こうすることで動きくらいは封じることができる。案の定死神は微動だにしない。
「さっさと行けっつってんだろ! 全員まとめて死にたいか!」
「うるっせぇ! 偉そうに命令してんなっ!」
皮肉を吐いてはいるがルレオはフレッドの考え通りの行動を選んだ。クレスの手をとって引き摺ってでもここから退避させること、それがフレッドとルレオの間で無言の内に了解された最善の策である。重症人にはこの役回りがリスクが高いが仕方ない。
「何考えてんのよ! フレッド一人残して行く気!?」
「つべこべ言わねぇで来い! マジで死人が出るぞ!」
おそらく今一番瀕死の状態にあるのは誰が何と言おうとルレオだ。しかしこの状況下においては、死にかけも健康体ももはや区別する意味はない。押し問答を始めたクレスとルレオの横をミレイを引きずったシルフィが通り過ぎていく。彼女は聞きわけがいい、というよりフレッドに頼まれたことを放棄するはずがない。
「どこ見てんだ、お前の相手はこっちだろ!」
底力というやつは既に使っているはずだ。フレッドは底の更に下を引っ張り出すように──つまり限界は既に越している──歯を食いしばった。未だ視界の中でぐずぐずしているクレスとルレオに今度こそ派手に舌打ちを送る。その時だった。緊迫した空気の中でひどく穏やかに、死神がささやく。
「……プレゼントは気にいってくれた? 君にはもっともっと苦しんでもらわなくちゃあ」
悪寒が走る。フレッドは咄嗟に距離をとった。後先考えずに込めていた力の反動が一気に腕にたたみかけてきて目に見えるほどに震えている。視界を支配する死神の笑み、それが網膜をひどく刺激し、視神経が疼く。早鐘を打つ鼓動に共鳴するように、激痛がフレッドをいつかの暗闇の世界に引きずり込んでいく。周りに気を配っている余裕など既になかった。
「くっそぉ! こんなときに……!」
「じっとしてなよ。僕が用があるのは本当のところフレッドじゃないし」
無邪気な声だけが鮮明に脳に響く。
「よせ……っ」
そして軽快な足音と気配が、遠ざかる。
「随分探したんだ、やっと会えたね」
「クレス!」
片膝ついて叫ぶ他、フレッドにできることはなかった。耳をすませば連中の息使いが聞こえるほどにすぐそばで事は起こっている。分かっているのにフレッドの世界を覆うのは暗闇と、その中で断続的に続く痛みだけだ。
「クレス──!」
もう一度彼女の名を叫ぶ。何の応答もないことがフレッドの焦りと不安をあおった。暗闇の世界が恐ろしい想像に塗り替えられていくのを止めることができない。応答は、最も避けたかった効果音で以て示された。
ザシュッ──やけに生々しい、粘り気のある音が響いた。それが合図だったかのように、フレッドの視界は次の瞬間には嘘のように光を取り戻していた。そこに広がる予想だにしなかった光景に言葉を失った。
「ル、ルレオ……」
ようやく喉を通ったのがその名だった。クレスが応答しなかったのは、フレッドと同じように驚愕に声を奪われていたからだった。粘り気のある音の正体は、死神の腕がルレオの腹をえぐり取る音だった。
「なんで……」
クレスが応急処置を施したわき腹の傷など、とうに断定できない。ルレオの胴はただ一面赤かった。そこから流れて落ちる血も、また赤く地面を塗り替えていく。
一番先に逃げそうな男が亥の一番にクレスを庇った、それも命を張って。その事実を、どの感情を以て表せばいいのか分からずにいた。
「全員ぼやぼやしやがって……。俺はどうせ一回死んでんだ、あの塔で。このくらいどうってことねぇよ。……あのときの詫びだとでも思っとけ」
あのとき──フレッドは知らない。
「行け! モタモタすんな!」
この異常な光景が、ルレオにとってはほとんど無意識の行動の結果だったことをフレッドは知らない。ルレオがつぶやいた“あのとき”のことを思えば、クレスが彼を置いて逃げられるはずもなかった。茫然と立ち尽くすクレスを連れ去るのは何も知らないフレッドの役目だ。一番残酷で、一番正しい選択をフレッドは瞬時に行うことができた。クレスの腕を掴んでそのまま走る。
「……それでいいんだよ、ボケ男が。……ほんと、どうかしてるぜ……俺は」