Crystal Line Chapter 26

 ここがどこなのか、という疑問は結局解決されなかった。そしてこれがどこへ続くのかという疑問も解決されない。全ては蜃気楼という名の幻の世界。その闇に進みいるフレッドとはぐれないように、シルフィはすぐ後を追った。地面と天井の区別さえない。ただ真っ暗な中で、一応立つ、という動作をしているに過ぎない。
「これが君の暮らすはずだった世界。暗闇の世界。音だけの世界。……だけどそれも終わる。残念だよね、そう悪くないところだと思うんだけど」
 死神の声は静寂の中によく響いた。鳥肌が立ったのは寒いせいだろうか、いや、ここに寒さはない。肌を刺す感覚といえば変わらない畏怖の念だけだ。それが触感として存在することを、彼らは神の存在を認めることで知った。そしてそれが、彼らの思うものと遥かにかけ離れた存在であることも知ってしまった。
 フレッドは剣を抜いた。その音にまぎれて、一足早い風切音が耳元をかすめた。ルレオの挨拶代わりの矢が死神に向けて飛ぶ。矢は、死神に命中する以前に、燃え尽きて灰になった。ルレオはこれっぽちも動じず二本目を放つ。
「屁でもねぇような顔しやがって。お前にはこれでもかってほどイラついてんだよ!」
「……僕も」
矢は死神の顔面直前で静止した。ここまでくると曲芸だ。ルレオも舌打ちはするが圧倒はされない。三本目を、放った刹那。
「伏せて!」
クレスの絶叫に従い、皆がほとんど倒れこむように伏せた。フレッドの頭の上を、炎に包まれた矢が高速で駆け抜けていく。ルレオが放った二本目の矢だ、彼は次の発射を踏みとどまる。
「クレスさん! 後方、来ます!」
ミレイお得意のプチ予言を頼りに、クレスは剣を振りぬく。振りぬいたつもりが、鞘から半分ほど抜いた時点で剣が止まった。死神が涼しい顔で剣の柄を押さえている。体重をかけてもその先1ミリと動かせない。その状態が一番危険であることは頭で分かっていたが、今引けば、それだけで終わる。
「ルレオ!」
フレッドが体勢を立て直し、ルレオに目と声で合図を送る。役割分担は打ち合わせなしで瞬時に了解しあった。こういう阿吽の呼吸ができてしまう辺りが気持ち悪いのだ。それに今全面的に頼ることができる。フレッドは惜しげもなく剣を投げた。それが死神とクレスの僅かな隙間を通り抜ける。同時にルレオがクレスごと2メートル後方に倒れこんだ。すぐさま矢を乱れ撃って死神との間合いをつくる。
 フレッドは勢いに任せて走り、倒れこんだクレスの鞘から剣を引き抜いた。
「ちょっと……! フレッド!」
「いいから大人しくしとけよ! 誰かが囮にならねぇと時計なんか奪えるかっ」
クレスに覆いかぶさったままルレオは再びボウガンを構えた。
「おい、天才! なんかいい方法ねぇのかよ! ぼやっと見学するためについてきたわけじゃねぇだろ!」
「あのねぇ……俺は運び屋として……」
ルレオの視線の先で、標的はほとんど動かずそこにいた。そうさせているのはフレッドだ。彼はどういうわけか死神との直接接触を厭わない。ベルトニア襲撃のときもそうだった。それが使命感や勇気といった大層な理由でないことくらい、ルレオにも分かる。彼が変わるのを、目の当たりにしてきたルレオには分かってしまう。
(撃てるか……。俺に)
狙いを定める。遠方射撃に自信はあった。標的が動かないとなればなおさらだ。しかし──。
 撃鉄を押さえ込む手、クレスの手だ。彼女は状況が分かっていて、ルレオとは全く正反対の行動をとってくるから面倒だ。
「何する気……!」
「分かってんなら邪魔すんなよ……っ。それなりに集中が要るんだ」
 何だこの状況──ルレオは胸中で自嘲した。出逢ったころから、実は何も変わっていないのではないか。あいつは相変わらず状況に流されて踊らされて、損な役回りを引き受ける。俺はあいつをぶっ殺したくなって撃とうとする。それをこの女が勘違いした正義感で止めてくる。だったら撃てる。躊躇い無く撃てる。あの時と同じなら絶対に──撃てる。
 ルレオは寝そべっていた体勢から半身を起こして、クレスの手を振り払った。もう一度照準を定める。視界が揺れた。ボウガンを握る手が、震えていることに気づいた。──あの頃とは何もかもが違う。フレッドは自らの意志で囮を買って出た。ルレオにはもう彼に向ける憎悪がこれっぽっちもなかった。そして、クレスが彼を止めるのは正義感なんて安い感情からじゃない。
「撃っていい。それでフレッドが倒れたらお前が代わるんだ。一応策はある」
背後から、不意にギアの声が降った。いつもどおりの素っ気無い抑揚で、口にした内容の異常さにクレスが目を見開く。
「……なるほどね、あんたはそういう役回りか」
「死んだら俺が責任以て骨拾ってやる。外すなよ」
ルレオは思い切り失笑を漏らした。ギアとは短い付き合いだが、これも分かったことがある。彼には責任感がこれっぽっちもないのだ。クレスの邪魔立てが入る前に、ルレオは割りとあっさり矢を放った。
 ぶしゅっ ──矢が飛んだ音、それが突き刺さる音、そしてどこかを破って血が噴出す音。とりわけ最後が目だって聞こえた。普通はほとんど聞こえない音を、フレッドは無意識に聞き分けてしまう。それしか取りえが無いといえば聞こえは悪いが、彼にとって誇れる特技といえば昔も今もそれだけだ。矢は見事に死神の身体と、フレッドの身体をつなぎあった。フレッドは、倒れなかった。貫通するほどの威力がなかったのだ。死神の腹部がやたらと肉厚なのか、ルレオが加減したか、後者だったら気持ちが悪くて吐きそうだ。そんなことを一瞬で考えて、結局フレッドは吐いた。それが胃液でなく、血液であることくらいは瞬時に悟る。
「痛くないの?」
不思議そうに死神が問う。
「はあ……? 痛いに決まってんだろ……。そっちこそ」
「僕は、そうだなあ。少し、腹が立つ」
そう言ってフレッドから視線をそらす。それはこちらの望むところではない。意識はこちらに集中してもらうのがベストだ。フレッドは矢を握って引き寄せた。死神は素直に、驚愕の色を見せる。
「……痛くないの?」
同じ質問を繰り返した。答えるのもバカバカしかったが、あれが飛んできたらもう答えることもできないかもしれない。視線の先でギアが大きく腕を振りかぶっていた。
「痛いに決まってんだろ!」
もう一度、同じ答えを返す。それが合図のように空間に轟いて、ギアは爆弾を投げた。世界最強の主砲をむざむざと艦から取り外したのだ、代わりに世界最強の手榴弾くらい作っておかなければ割に合わないとでも考えたのだろう。フレッドはそれがやけにゆっくり飛来してくるのを、嫌な気持ちで見送った。
 そしてそれは、またも死神の眼前で静止した。ルレオの二番目の矢を思い出し、フレッドは青ざめた。その想像は的を射ていたが気づくのが遅すぎた。
 爆風。フレッドの唯一の特技を奪う、爆音。それらがルレオたちの居た方向で混ざり合った。火薬の饐えた臭いが鼻腔の機能さえ奪う。奪われた覚えのない声が、今に限っては全くでなかった。
「ねえ。君、僕の日記のページを先にめくるような真似、やめてくれる? 目障りだよ」
死神はあっさりフレッドとの距離をとった。矢が抜けたことで、ふさがれていた傷口が開く。フレッドはその場に肩膝をついて崩れた。
「……ミレイ……っ」
彼女の予知は常に発動していた。シルフィとクレスを最優先した判断に、フレッドは胸中で賞賛を送る。だが、この後がない。震えながらクレスとシルフィの前に立つミレイ、彼女を救うための一歩が間に合わないことをフレッド自信分かっていた。
「消えて」
だからその一歩を、踏みとどまってまた剣を投げた。今度はこの剣の主の手に向けて。
 死神の手がミレイの首筋を掴む。掴まれた箇所が燃えるように熱い。腹の底から搾り出すようなうめき声をあげながらも、ミレイはあがいた。それが豪快な風切音と共に楽になるころには、指先ひとつ動かせなかった。地面に倒れる。すぐ横に、レンズのなくなっ眼鏡の縁だけが転がっていた。



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