「いい加減にしてよ……! 私は守られるためにここへきたわけじゃない!」
「僕も変だと思った。クイーンが守られてキングが動き回るなんて、チェスとしておかしいよ」
「何がチェスよ……」
「僕にとってはそうだ。盤上で戦争しかしない。しかもルールも守らない。最低最悪のチェス盤だよ、世界は」
切り落とされた右腕をしげしげと眺めながら、小さく「痛いなぁ」などと呟く。赤い血が流れていた。それが恐ろしくて、クレスは深追いせずシルフィの手を引いて数歩後ずさった。その数歩で、フレッドと合流する。ほとんど引きずりまわしていたようなシルフィを受け止めて、無意識に頭の上に手を置いた。大丈夫の合図。自分が大丈夫だと、思える合図。
「……フレッド……!」
クレスの予備の小剣を、また勝手に引き抜いた。クレスはもう自分の剣を手放すことはないだろうから、盗人猛々しいが仕方ない。この肝心なときに限って、計ったように眼球が痛覚を刺激し始めた。いっそのことえぐりとってすっきりしたいくらいだ、いつもなら自嘲して含み笑いをこぼすところだが今はそれさえする気になれない。
「シルフィのこと頼むよ。やれるだけ、やってみるからさ」
「何かっこつけてんの……? やれるだけじゃ意味ないのよ!」
人間はやれることしか、やれない。死ぬまで逆上がりができなかった人間が、死ぬ間際に大車輪ができるはずもない。従ってクレスの怒りは、いわゆる理不尽というやつだ。
「わかった。間違えた。シルフィ、クレスのこと頼むよ」
フレッドは根本を訂正することにした。シルフィなら文句なしで頷いてくれる。「まっかせといて!」と元気よく拳を握ってくれるはずだ──が、彼女は小さくかぶりを振っていた。フレッドは諦めたように天を仰いで──
「頼んだからな!」
小剣の柄でクレスのみぞおちをたたいた。これくらい屁でもない。取っ組み合って殺し合いまでした仲だ、今更みぞおちのひとつや二つ平気で落とせる。
「フレッド! やだ! いやだよ!」
クレスが崩れ落ちる横で、シルフィが喚いた。珍しいななどと悠長に考えて、走りながら少しだけ振り返った。それから前に向き直って、腹が痛いということも思い出した。
「ソフィアへの罪滅ぼしのつもり? こんなことしたって君の罪は消えやしないのに」
「はあ? 前世の俺のことなんかいちいち労ってやれるかよ!」
小剣は扱いづらい。個人的にそう思うというより、剣をならったのがベオグラードなのだから仕方が無い。ベオグラードが小剣を持つと、爪楊枝を手にしているようでよく笑い転げたものだ。
「勘違いしてたら可哀想だから教えておいてあげる。君と彼女の輪廻が続いたのが運命的なものだって思ってるな大間違いだよ。輪廻は運命で続いたんじゃない、宿命で縛られるように僕が仕組んだんだから」
フレッドが目を見開く。無意識に後方の二人に視線を送った。
「これが〝君″という存在への本当の大罪だよ。君は何度転生しても彼女を見つける。愛して、殺す。そうやって永遠に苦しめばいい。……〝君″がいけないんだ……! こんな時計作ったりするから!」
「勝手なことばっかり言いやがって。でも感謝しなきゃな。あんたがおれに科した大罪のおかげでクレスと会えたんだとしたら」
小剣をつく。死神が纏ったローブめがけてどこともなく突き出す。それが話題の「時計」にヒットすればいい。何度目かの突きで、手ごたえがあった。肉を裂く、一番嫌な類の手ごたえだ。それが死神の手の無い方の腕だと知ったときには、もう一方の手が自分の目に触れていた。ただ触れただけだった。それだけで視神経が焼けるように疼く。あるのかないのか分からないままの床にひざまずいて、フレッドはただ片目を押さえつける他なかった。
「じゃあ君の言うとおり大罪を楽しんでよ。前と同じようにそこで、ただ見てて」
片目を残したのはわざとらしい。大きく目を見開いたまま、妙な呼吸音をさせて死神がクレスに歩み寄る。もう幼い少年の姿にはこれっぽっちも見えなかった。シルフィはそれでも逃げなかった。後ずさりもしなかった。ただ大粒の涙がこらえ切れずあふれ出る。
「……今頃フレッドも思ってるんじゃないかな。どうして時を止めてくれないんだって」
それが自分に掛けられた言葉だということを解するまでに、少し時間を要した。シルフィの涙は死神への恐怖からくるものではない。それを知っているのは自分と、おそらく死神だけなのだ。
「どうしようもないとき、いつも君が時を止めてた。だからみんな思ってるんだよ。早く何とかしてくれって。だけど君は知ってる。いろんなことをもう知ってる。……だから君は時を止めない。今から何が起こってもね」
死神は優しく語りかけた。かつて自分が、自分の代わりにラインを守るよう使命を科した種族、その末裔の少女に。
「シルフィ! 逃げろ!」
立ち上がれないまま、フレッドが声だけを張り上げた。
「……嘘だよ。君にも聞こえるでしょ? 全身で叫んでる。時を止めて!って」
シルフィはかぶりを振った。
「無理だよ……。できないよ、フレッド」
フレッドは見ているしかなかった。シルフィの小さな瞳から涙が流れるのを、死神が無造作に時計を取り出すのを、クレスの腕にそれが絡みつくのを歯を食いしばって見ているしかできない。普通なら格好良く最後の力とかいうものを振り絞って立ち上がるのが筋なのだろうが、そんなものが残っているならとっくの昔に使っていた。
「……何してるの?」
だから情けなく這った。意味が無いことは分かる、分かった上で死神との間合いを詰める。
「フレッド……」
シルフィの目にはどう映っているだろう。彼女が憧れていた王子様は、地面に這いつくばってトカゲのように無様ににじりよってくる。シルフィがとめどなく流す涙の理由が、哀れみか悼みか、それとも別の何かなのかはフレッドには分からなかったが王子様のイメージをぶち壊したことだけは分かる。
死神はつまらなそうに一瞥くれただけで、すぐに向き直ってクレスの手で、時計の蓋を開けた。その手にしがみつく、小さな手。
「やめて! わかんないの!? みんな死んじゃうんだよ、また独りになっちゃうんだよ!」
「……そうだね。独りは、とてもいやだ」
死神はクレスの手に、その小さな手を重ねて針を回した。遠い未来、いつかは来たのかもしれない星の終わりの日まで針を進める。それが、クリスタルラインの解放そのものだった。暗闇の空間は針の音に共鳴して次第に熱さを増していった。まるで星の体温が、血脈が波打つように。
「熱い……っ」
針の音だけが淡々と響く。
「……それで、気が済んだか……?」
穏やかな声に死神は手を止めた。厳密にはほとんど掠れたただの弱々しい声だ。這いつくばってきたフレッドの目に、震えの止まらない死神の手が映る。時計が滑り落ちた。ただならぬ温度で体力は削られ、湯だった汗と二酸化炭素が火山口のように吐き出されていく。フレッドは疲労感いっぱいに嘆息して、その分深々と息を吸い込んだ。酸素はほとんどありはしなかったが。
「……神は生まれ変われない。あんたが背負った〝大罪″は永遠に消えない」
「僕の、大罪」
「この世界と俺たちを作ってしまった、神の大罪」
箱庭が揺れている。星の中心を串刺しにする光を発するために、揺れて燃える。
「こんなどうしようもないことばっかやってる人間が……好きだったろ。だから自分の手で後片付けしようとしてたんだろ?」
フレッドの穏やかな語りかけに死神は完全に沈黙していた。針はもう進めていないが、時間の加速は止まらない。クリスタルラインは解放への一途を辿るばかりだった。
「あんたばっかり汚れ役買わなくたっていいんだぜ。……みんないい加減分かってるよ。自分たちがどれだけ愚かな存在かってさ、気づいてるよ」