熱さは勢いを増す。星の胎動とでも言わんばかりに、地響きが止まない。この揺れの中では五体満足であっても立ち続けることは難しいだろう。フレッドは腹部を押さえてよろよろと座りなおした。シルフィや死神と視線を合わせるにはそれで十分だ。
地面が揺れ、空間が揺れ、心が揺れた。誰より純粋で繊細な、痛々しいほどに綺麗な心が揺れていた。
「もう遅いよ」
発汗作用が追いつかないほどの異常な高温の中で、転がっていた時計に大きくひびが入る。文字盤を縦に真っ二つに割るひびが、入ったかと思うと一瞬にして拡散した。この熱さのせいか、度を越えた時間の歪曲のせいか、狂ったように廻っていた針が静止する。それがいつもの幾分間抜けな止まった時計に戻ったわけでないことは容易に察しが着いた。
「時間……もう、戻らないの……? みんな、消えて無くなっちゃうの?」
「諦めんな!」
ここで勢いよく立ち上が──ろうとして失敗。腹を押さえて再びうずくまるフレッド。しかし激痛が彼の意識を明瞭にしてくれるのがまた皮肉である。
「……いいか神様! 大罪だか何だか知らないけどなぁ、そんなもん必要ねぇんだよ! 犯した過ちにみんな気づいてる。一度犯したから分かったんだろ!? あんただってそうだったはずだ! 大事なのはその後だろ……自分で自分を赦してやれば、あんただって救われる」
許しは請えば誰かがくれる、でもそれは救いにはならない。そんなことはもう何度も味わった。
「もう人間なんか裁かなくたっていい、成長したしね。自分たちの不始末くらい自分たちで片付けるよ。だから神様は……ゆっくり日記をつけてりゃいい。あんたがつくった人間がろくでもなくなんかなかったって……証明してやるよ」
これは「きっかけ」だ。届きもしない手を救いの手だと言わんばかりに差し伸べた。神は、その手を静かにとる。
「昔から君は……変わり者だね」
赤い髪の少年は穏やかに笑む。おそらくはこれが本当の彼の笑みなのだろう、そこに恐怖心は少しも生まれなかった。
崩壊はそれでも進む。たとえ神がこの手をとってもクリスタルラインの加速は止まらない。
「僕を殺せば、止まるかもしれない。任せてもいい? ……フレッドくらいにしか、頼めない」
神はフレッドの手を離し、倒れた者たちをこの空間から追い出した。星の中心はここだ。いち早く無に還るのもやはりここだろう。それを見届けるためか、止めるためか、そういった役割に選ばれたのはフレッドとシルフィだけだった。
「じゃ、お願いするよ」
「やだね! そんな嫌な役引き受けてたまるか! だいたい『かもしれない』じゃ困るんだよ、神様だろ!」
目を剥く神を視界から追い出して、フレッドは転がったままの懐中時計をにらみつけた。
何が『ラルファレンスの指輪』だよ……! ──ランスからソフィアへの、限りない愛がこの時計にはこめられていた。それが遥か時を越え、こうしてまた二人をつないだ。それが何とも気に食わない。
「絶対何とかする……! 前世の俺が作ったなら!」
「フレッド……」
鎖を掴んで時計を手繰り寄せた。頭がおかしくなりそうなくらい周囲は暑い。否、もうとっくの昔におかしくなっている。考えていることのほとんどは支離滅裂だし、口に出す言葉の取捨選択も全くうまくいってない。
フレッドはひび割れた文字盤を食い入るように見つめた。無駄だと分かっていながら、文字盤を開ける。無論ひらめきは無い。彼は楽器屋であって時計屋ではないのだ。死んだ時計を蘇らせる術をフレッドは知らなかった。しかし同時に、初めて見る気もしなかった。自分はこれを誰よりもよく知っている気がする。
── 大丈夫。でかい歯車がずれただけだ。俺なら直せるよ。 ──
「はあ?」
そんな自信は全くなかったし、もちろん根拠もない。それなのにフレッドは胸中でそう呟いていた。口に出したのは自分への疑問符だけだったが。
(でも……)
フレッドは「彼」の自信を信じることにした。事実、見たことも無いはずの時計の構造をほぼ完全に把握している自分がいる。正確には、魂が把握しているのだろう。ここへきてまさか〝大罪″の元凶に頼ることになろうとは思っても見なかった。それでなくてもフレッドは、自分より明らかに出来がいい前世の自分が大嫌いだ。
「俺なら……直せる!」
そう自分へ言い聞かせた。構造は分かる。どの歯車がずれていて、それがどこに影響を及ぼしているか。しかしこの尋常で無い揺れが彼の手先を狂わせる。汗が蒸発するような熱さが集中を奪っていった。苛立つフレッドを、どこか遠くの出来事のように瞳の中に映してシルフィは何故か小さく微笑んだ。
「フレッド、……ありがとね」
そして不意にささやく。フレッドは一瞬だけ顔を上げた。この状況下で礼を言われることは何一つしていない。
「諦めんなって! 絶対助けてやる!」
「うん、大丈夫だよ。諦めない。でも……どうしても言っておきたかったんだ……。あたし、フレッドには助けられてばっかりだったから。だから、今度はあたしが……フレッドを助けるの。だってこれは、あたしにしかできないことだもん」
フレッドは今度こそしっかり顔を上げた。そこには、溢れんばかりの笑みをこぼすシルフィがいた。その笑顔の意味を瞬時に解することができない。だから彼女が発した言葉の意味を考える余裕もなかった。
「えへへー……やっぱり、フレッドはあたしの思ったとおりの王子様だったよ! お姫様になれなかったのは残念だけど」
「シルフィ……?」
パァン! ──地響きと自らの鼓動に支配されていた聴覚に、この場にそぐわない破裂音が割り込んできた。膨らんだ風船に針を突き刺したような、お粗末な音だった。それを合図に辺りが静まり返る。音だけではない、焼け付くような痛みも熱さも狂ったように揺れていた空間も、全てが止まる。──時が、止まった。星の崩壊はシルフィの力で一時的に静止したのである。
「そう長くは止めてられないから……後はフレッドに頼っちゃうね」
「……分かった」
疑問を口にすることも、混乱に身をゆだねることも許されなかった。それは後回しだ。「後」があるなら、後回しでいい。
シルフィが時を止めたにも関わらず、時計は知らん振りで止まっていた。本来なら今動いていなければならない。これはそういうふざけた時計だ。全神経を小指程度の小さな部品に集中させるフレッド、その背中にシルフィはもたれて座った。もたれているようで、支えていてくれたのかもしれない。
── 力むなよ。手助けしてやるだけで歯車は本来の位置に戻る。 ──
「うるっせぇなあ……!」
「フレッド……? どうしたの?」
「いや……自分の声が──」
言いかけて、やめた。自分は至って平静だ。冷静ではないがまともな判断力くらい残っている。偉そうに指図してくる自分の声を聞いていると、どうも世界一腹の立つ兄の顔が浮かんできてなおのことイライラするのである。
「シルフィ!」
背中に向けて聞こえるように声を張った。ランスの相手をしているよりシルフィと話しているほうがよっぽど集中できるというものだ。