全員の視線が眠りこけたクレスに集中する。と言ってもティラナは運転中なので気持ちの面での話だ。誰もが口を開こうともしない中、彼だけは率先してフレッドの胸座を掴んだ。
「この女が皇女じゃない……? だったら何で応戦したりした!? 顔も声も覚えられちまったじゃねえか、どうすんだよ!!」
おそらく体勢的にはかなり苦しいと思われる、ルレオは運転席と助手席の狭い隙間から無理やり体をねじこんで上半身だけを後部座席に出していた。加えてこのまま後ろ向きで数十分も走れば車酔いすることは間違いない。
ティラナのそんな心配は今やどうでもいいもののひとつになっていた。
「俺たちが失敗して無くなるのは金だけじゃねえ! お前のちっぽけなヘマのおかげでここにいる全員、死刑確定だ。これは絶対失敗できねぇ仕事だったんだよ!! どう責任とるつもりだ、『すみませんでした』じゃ済まねえぞ!!」
返す言葉が無かった。謝罪すら認めてもらえないとなるともう弁解の方法も見つけられそうにない。ひたすらに黙っているとルレオが嘆息して身を引いた。
「……とりあえずリナレスたちと合流しましょう。先にルーヴェンスが即位してしまえば丸く収まるわけだし」
「ああ……、けどその前に」
ルレオが何かごそごそしているのをフレッドは虚ろに見ていた。金物っぽい硬い音がすると共に再びルレオが後部へ体をねじこんでくる。その手には矢がセット済みのボウガン、視界に入ったそれらをフレッドは呆然と見つめていた。
ルレオの行動パターンもさすがに掴めてくる。矢の矛先は案の定クレスの喉元だ。
「おい……! 何するつもりだよ!」
「うるせえ。ここで殺らねぇと俺たちが死ぬことになる。口出しすんじゃねぇ」
「お前、自分がしようとしてること分かってんのか!?」
「黙れよ。文句があるなら死んで詫びろ」
ルレオが静かにボウガンの引き金に手をかける。刹那──。
「あまりバカなことしないでもらえる? 今ここで城の人間を殺せば本当に牢獄行きくらいじゃ済まなくなるわよ」
わざわざ車を停めて、ティラナが矢尻を指で押さえこんだ。そのままルレオのボウガンをさっさと奪い取る。ルレオも反発せずに渋々前方に向き直った。
ティラナが車を停めたのはわざわざというわけではなく、車を走らせる必要がなくなったからであった。屋根も壁もない人工的なサークル、立ち並ぶ白い柱はところどころ欠けていたりひび割れていたりで年代の古さを物語っていた。
「これが儀式殿、か。リナレスたちはまだ来てないみたいだな」
車を降りてフレッドが辺りを見渡す。いつもの夜とは明らかに異質な暗闇に息を呑む。確かに状況も気持ちも気楽ではなかったが、それ以前の根本的な要素が違うことを何となく肌で感じていた。
「見て、フレッド。月が……月がないわ。だからこんなに暗いのよ」
星が恐ろしく光を放っていて単純に不気味だった。月ひとつ無いだけで夜空がここまで異質なものになることをフレッドは初めて知った。
「皆既月食か。また珍しい日に当たっちまったもんだ」
感動も何もない適当な感慨を口にして、ルレオはつまらなそうに徘徊しはじめる。ティラナも車を降りてその後を追った。
「……面倒なことになったな。あの女……どうすれば一番いいんだか」
横目でちらりと未だ眠りこけたままのクレスを見やる。そのまま放置してフレッドも見物がてら歩き始めた。ひどく喉が渇いていた。緊張と興奮が断続的に繰り返された末の、当然の症状である。
だから余計に、その水の音に敏感になれた。水面が風で微かに揺れる心地よい音に誘われてフレッドはふらふらと足を進めた。神殿の外れにひっそりと、不揃いな煉瓦で作られた井戸のようなものが見える。覗き込むと底は浅く、清水が数センチだけ溜まっているような状態だった。
「湧水かな……にしてはしょぼい」
好き勝手言いながらためらいもなく人差し指を突っ込んで味を確かめた。妙な刺激や臭いはない。恐ろしく澄んでいるから雨水でもない。枯渇状態のフレッドにとって判断基準はそれだけで十分だった。適当な手器で掬うと一気に飲み干して、渇きを潤した。
風呂上がりの中年よろしく満足そうに一息つくと、台座の横に無造作に転がっている杯が目に入った。
「ご丁寧に杯があったのか。こいつもボロい──」
拾い上げた直後、フレッドの背筋に冷たいものが走った。杯と台座を交互に見やる。
──フレッド、王位継承の儀が行われるのはいつだか知ってるか? ──
脳裏にいつかのベオグラードの言葉がよぎる。フレッドは記憶をあさった。
──その日、王都の西にある儀式殿で聖水を口にした者が正当なファーレンの指導者となる──
確かにべオグラードはそう言った。今日ここで、聖水を飲めば王になる、と。
先刻の気だるい動きが嘘のように、フレッドは慌てて台座の中を覗き込んだ。フレッドが飲みほしたまま、水は湧いてきていない。状況と自分の行動が嘘臭すぎて言葉が出てこなかった。
(誰も……見てなかったよな)
辺りをそそくさと見渡す。ルレオもティラナも反対側でリナレスの到着を待っているし例の女隊長は車の中で爆睡中だ、それらはフレッドにとって不幸中の幸いであった。咄嗟に思いついたのはとにかく水を用意すること、今の時点では可能である。
善は急げと杯を握りしめると同時に彼の思惑は崩れ去った。
ドクンッ──心臓が警鐘を鳴らす。違和感を抱く前に第二振がたたみかけた。ドクンッ──心臓をサンドバッグ代わりに誰かが殴っているような激しい衝撃に、フレッドは地に跪いた。
「冗談だろ……! たかが水で……!」
体はそう思わせてくれない。体中を走る熱に呼吸が困難になる。息を荒らげてもほとんど酸素が入ってこない。かすみ始めた視界に人影がちらついた。
「あ、いたいた。あっちよ」
「あーほんとっ。もうみんな勝手にうろうろしないでよ手間がかかるったら……何してんの、フレッドのやつ」
ティラナとリナレスの場違いなほどあっけらかんとした声が響く。もう今の時点では二人が現れるタイミングなどそれほど問題ではなかった。掴んでいたはずの杯が頼りなく二人の方へ転がって行く。彼女たちの視界から苦しむフレッドが末梢され、転がる鉄器に集中されたのは言うまでもない。
更にもう一人、脊柱にままならないからだを預けてようやく立っている女が、この光景を目にして放心している。
「なんで……なんであの男が聖水を……っ」
呆然とするクレス、わななくリナレス、ゴキブリの死骸でも見るようなやるせない表情のティラナ、状況理解だけは一瞬にしてなされたがこの場を共有した連中が正気を取り戻すのは時間がかかりそうだ。どちらかと言えばフレッドの方が落ち着きを取り戻しつつあった。