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Grand Piano Chapter 5

 ポーン……──響きは思った通り最高だった。上品に空気を振動させて澄みきった音は心地よさをくれる。しかしフレッドは顰めつらで首を傾げていた。再度、同じ鍵盤を今度は躊躇いなく叩く。先刻と同じ音が勇ましく周囲を駆けまわった。フレッドはつづけて次の音、その次の音と流してオクターブ弾き終えると指を止めた。もう首は傾げなかったがどっぷりと重い呆嘆を漏らした。
「調律が滅茶苦茶……。なんだよ、これだけ立派ななりして飾りものか?」
ひとりごちて、いやピアノに慰めの言葉を送ってフレッドはその黒いボディを軽くたたいた。と、息をひそめる気はどこへ行ったのか、ピアノの下だの近くの棚だのを大胆に漁り始めた。


 同時刻、彼女は欠伸に口を覆いながら長い廊下を長い髪をまとめながら歩いていた。いつもならすんなりまとまるのに今日は聞きわけが悪い。夕陽を取り込む大きな窓を鏡代わりにして、それでもクレスは歩みを止めることなく大股に廊下を進んだ。
「疲れていたとは言え最悪だわ。よりによってこのメンツとこの国で……!」
 他国に、それもあまり仲の宜しくない国にこうまで協力してもらいながら一日寝過すなどという行為やらかしてしまった後悔で起きてから今まで溜息が止まらない。何かしら自責の言葉を口走っては癖のように嘆息を繰り返した。
 廊下が美しい夕陽にオレンジに染まっていようが今のクレスの眼には映らない。ただ少し眩しい視界に目を細め、ただただ速足に突き進む。その歩みを止めたのは、微かに響く柔らかな、どこか繊細な『音』だった。
「何……?」
急ブレーキをかけて訝しげな表情で辺りを見渡す。二度、三度、同じ音が響くとそれがピアノの音であることに気づく。それが拙いながらもメロディを奏でていることも同時に認識できた。懐かしいような切ないような、そんなメロディがクレスのすさんだ心を静めて──はくれなかった。ところどころ音を外しては旋律は立ち止まり、また外しては止まる。クレスは眉間のしわを濃くして音のする方へ走りだした。
 閉じた両開き扉の奥からこもったピアノの音が聴こえる。こもってはいるが先刻よりもはっきりと鼓膜をくすぐる。部屋の前で一度深呼吸すると、音をたてないように慎重に片方の扉を引いた。隙間から顔だけをのぞかせる。そこにはクレスにとって意外、というよりも異様な光景が待っていた。
「まだ高いな……。どこまで上がってんだ、これ」
フレッドがぼやきながらピアノの前に突っ立っていた。椅子の上に何やら奇怪な道具を乗せて自分の手にはY字型の金属を握らせている。
(そういえば楽器屋……だったっけ。何やってんのかな)
 趣味が悪いとは思いながらもクレスはこのままのぞき見を継続することにした。金属をネジまわしに持ち替えてフレッドは巧みにそれらを操る。クレスは息を殺して彼の手元を凝視した。テキパキと何か作業をしては再び鍵盤の前に立つ。
 ポーン……──美しいA音が鳴った。フレッドは満足そうに、順に音階を辿る。次いで、先ほどの劇的に拙いメロディを性懲りもなく奏で始めた。繰り返すが、劇的に拙い。見事に見当はずれなワンフレーズでクレスには彼が何を弾きたがっているのかが読めたが、分かったからこそもどかしさがこみ上げてくる。
「あれ、なんか違うなー。あー、イライラする」
(イライラするのはこっちよ……っ、あー……! もう、また外す!)
とっかりつっかかりだが完全に停止することもなく、ある意味でいさぎの良い間違い方でずんずん突き進むフレッド。締めの一音も盛大に、外れていた。気合い混じりに押した白鍵は間抜けな音色を高らかに響かせる。半眼で硬直するフレッドの背後で、小さく笑い声が漏れた。高速で振り返った先でクレスが声を殺して笑っていた。
 フレッドはそれを視界に入れるや否やそそくさと鍵盤から手を離した。
「いつからそこに居たんだよ。盗み見なんて趣味悪いな」
「ああ、ごめん。ずっと見てたわけじゃないの、ピアノの音が聴こえたからつい、ね」
緩む口元を引き締めようとクレスが咳払いする。フレッドの冷めた視線を感じてか、笑うのもとりあえずやめた。
「今弾いてたの知ってる。『ラルファレンスの指輪』でしょ? 好きなのそれ。小さいときからよく聴いてた。フレッド楽器屋さんなのに弾けないの? 結構派手に外れてたわよ」
 クレスが快く話しかけてくるのもフレッドは応答せず先刻と同じフレーズを弾き始めた。そして先刻と同じところで間抜けに音を外す。
「そこ、C……」
申し訳なさそうに、横から訂正するクレス。フレッドは心外ながらも言われた通りの鍵盤をたたいた。お世辞にも素晴らしい演奏とは言い難かったがようやくメロディになる。そうすると、どことなく抱えていた霧のようなものが晴れた気がした。
 フレッドは無意味に鍵盤に手の"腹”を滑らせてこのピアノと満足を分かち合う。気分がいいので少しだけ、既に部屋を後にしようとしている面倒女と会話をしてみることにした。
「俺はこいつを調律してただけ。別にラルファレンスが弾きたかったわけじゃない」
「あ、そうなんだ」
声を張っていたから独り言じゃないと分かる。背中にかけられた意外にも穏やかな声に、クレスも思わず足を止めた。フレッドは丁寧に椅子の上の調律器具を片付ける。
「ピアノとかバイオリンとか、そういうの得意なのは兄貴。俺は何も教わらなかった」
「でも調律ができるって凄いじゃない。それはご両親に教わったんでしょう?」
 フレッドの手が止まる。わざわざ片付けを中断してまでする溜息は、たいそう嫌味がこもっているように見えた。再び作業を開始して発する言葉は早くも面倒そうだ。
「……これは自分で勝手に覚えたんだ」
ピアノの蓋を閉める。少しの会話の間、結局フレッドは一度もクレスと目を合わそうとはしなかった。作業が終わればここにとどまる理由もない、彼女の横を素通りした。
 扉に手をかけると同時に、足が退室を躊躇った。フレッドの意志とは無関係に半歩分振りかえる。あのメロディが、本来の美しさと繊細さで以て奏でられている。優しく、愛しく、懐かしい旋律。
 フレッドは振り返った。そうすべきだと本能が囁いた。開けかけた扉を閉めてそのまま食い入るようにクレスの演奏を見つめる。視線の先で、彼女は滑らかに指を滑らせている。それは鍵盤の上で軽やかなダンスを踊っているようでもあった。
 曲の名は『ラルファレンスの指輪』。リオーズ作曲の歌劇の代表作として大衆に認識されているが、そのおおもとは歌劇ではない。作曲者不詳の民族楽典をリオーズという近代の作曲家が歌劇として大衆向けにアレンジしたものが今世に知れている『ラルファレンス』であった。
 終曲を迎えクレスが鍵盤の蓋を閉めると同時にフレッドが口を開く。
「ピアノ弾けるんだな」
「まあね。母や祖母がよく教えてくれたから。『ラルファレンス』は好きな曲のひとつだし、今でもこうやって弾いたりはするわ」
ここまで暗譜されているのだから別段疑いはしない。ただそれ以上話を広げる気もフレッドにはなかった。
「貴族のたしなみ、ってやつね」
ひとつ小さくつぶやいて、フレッドは迷いのない足取りで踵を返した。この部屋にとどまったことを、思わず話を切り出したことを後悔する。
「ちょ、ちょっと待って! フレッド!」
勢いよく踏みだした足が床をこすって止まる。名前を呼ばれるのはこれで何度めだろう、名乗った覚えのない名前を。

 

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