クレスは切羽詰まった声を出した割にのんびりとフレッドの傍に歩み寄った。
「言っておくけど私貴族の出じゃないわよ。親も親戚も。ファーレンの片隅にある田舎町出身だもの。階級は王職に就く際にいろいろ手配してもらったの。両親はもういないしね」
十三か月戦争で──という件をクレスは省略したようだったがフレッドには伝わった。この話もやはり別段疑いもしない。そして詳しく聞きたくもなかった。
「だから? 別に俺そんなこと訊いてないよな。……他に用がないなら戻るけど」
冷たくあしらって、そう自分でも驚くくらい冷たく言い放ってフレッドは再び背を向けた。
「……一応弁解しておこうと思っただけ。特に深い意味はないわ、ただ──」
意味深な口調にまた足が止まる。
「あなたは今の事態をどう思ってるのかと思って。前にも一度言ったけど、何故こんな真似をしたの? 捕まったらどうなるかくらい分かっていたはずよ。……ベオグラードに何をふきこまれたの」
「……あんたも存外しつこいな。聞いて何になる? ベオグラードさんを引きずり降ろしてあんたがファーレンのトップにでも立つか? ……アホらしい」
フレッドはこれ以上ないというくらい嫌味な目つきをクレスに向けていた。クレスは、と言えばフレッドのそんな態度に慣れたのか特に動揺もせず口を真一文字に結んでいる。
「じゃあ質問を変える。何故私を助けたりしたの。いくらだって殺せる機会はあったのに」
「……それも前に言った。俺はあんたみたいに真面目じゃないし、やることなすこと全部にいちいち理由なんかない。文句があるなら自害でも逃走でも俺の関係ないところでやってくれ」
また、言い放つ。フレッドは今度は少しクレスの反応を窺った。
このところずっとルレオと腹の探り合いをしていたせいだろうか会話の仕方が分からなくなっていた。フレッドは落ち着いているわけではなく混乱しすぎて思考が停止しているに過ぎない。状況も、交わされる会話も置かれている立場も考えたくなくてごまかしてしまいたかった。全てはぐらかしてしまいたかった。
クレスは表情を変えずに少しだけ俯いている。
「いいえ……。助けてくれて……その、感謝してる。ありがとう」
フレッドは目を見開いた。クレスは少しだけ柔らかく微笑んでいる。数秒それを眺めてからフレッドは大きくかぶりを振った。
「いや……こっちも、悪かったと思ってる。いろいろありすぎて頭がついていってないんだ。なんだかんだいって俺もあんたに助けられてるわけだし」
「クレスよ」
「……は?」
やはり会話の仕方が違うのか、かみ合わない言葉のキャッチボールにフレッドが声を裏返す。
「クレス。あんたあんた言われるのははっきり言って気分が良くないのよ。とりあえずそう呼んでくれる?」
「なんなんだよ結局……」
フレッドは独りごちて呆れかえると今度こそ速足で部屋を出た。嘆息しながら夕陽の差す廊下を突進していると後方からクレスが追ってくる。振り返らずとも気配で何となく分かった、いっそ全速力で走って逃げようかとも考えたが実行に移す前に先手を取られた。
「フレッド! まだ話があるわ!」
「小出しにするなよ! 面倒くさい奴だな!」
これは本音だ。地団駄を踏んでやけくそ気味に廊下の中央に立ち止まった。こうなればもう矢でも鉄砲でもクレスでもどんとこいだ。
「一番大事なこと話すの忘れてた。真剣に答えて」
真顔でそう言われれば反論はできない、否応なく頷いてフレッドは質問を待った。待っていた態度はさほど悪くなかったはずだがクレスは視線を泳がせて話を始めようとしない。
「だから何なんだよっ。そっちが呼びとめたんだろ!?」
クレスは困ったように肩を竦めて嘆息した。大げさなこの間合いが何を意味するのか、フレッドの湧いた頭では察しがつくはずもない。
「そうね、黙ってるのもなんだし。……ずっと触れないようにしてたけど、あなた、今自分がどういう立場にあるか分かってる?」
「……その手の文句ならもう嫌ってほど聞いたよな?」
フレッド半眼の反応にクレスが慌ててかぶりを振る。
「そういう意味じゃなくて……その、なんて言っていいのか。私は今ファーレンの騎士団長でしょう?」
「解雇されたけどな」
そういう下らないあげ足とりだけは間髪いれず口をつく。クレスは必死に浮き出る青筋を押しこめて平静を取り繕った。
「あなたは今自分がそれの何にあたるか気づいてるのかって言ってるの」
「はあ? あんた身分証明見たんだろ? 階級なんて今更……。……あ?」
言いながらフレッドは何かに気づいて口をつぐんだ。正確には声を発するのを中断しただけで、むしろ口はだらしんあく開いていた。数秒そのまま過ごして、フレッドは面倒そうに舌打ちして眉をしかめた。
「すっかり……忘れてたな。王位継承しちゃったんだっけね。ってことは今現在ファーレンの国王は、俺ってことになるわけか」
「そうね。でも形式的にはファーレン十三世がまだ指揮を執ってると思うわ。国民も事態に気づいていないはずだし大事にはなっていないと思う」
「まあその辺りはベオグラードさんが食い止めてくれるだろうけど……」
嘆息に疲労がにじみ出る。こうやって口に出してみると、恐ろしい事実に眩暈がする。脳はフレッド自身よりも早々に根を上げていた。家族のこと、仲間のこと、革命のこと、そしてこの先の自分のこと、考えなければならない項目が多すぎて手つかずのままでいる。意図的に忘れようとしていたのかもしれない、しかしそれはクレスが許さなかった。
「神に認められた真の王はフレッドよ。それは間違いないの。たとえ何かの間違いで王になってしまったとしても事実は変わらないわけだし」
なぐさめているつもりなのだろうがやたらに制度の良い皮肉にしか聞こえない。フレッドは苦笑を返した。
「私ずっとファーレン王に仕えてきたわ。今はセルシナ皇女直属だけど。でも国王が変わったってことはよ? その、私が仕えるべきはフレッド、ってことに……」
申し訳なさそうに呟いたクレスにフレッドの顔が凍りつく。微動だにしないフレッド、もう奇声さえ発する元気がないらしい。残り少ない生命力を振り絞って極上の作り笑いを浮かべた。
「えっと……なんだって?」
「だから。今までテロリスト扱いしてきたけどフレッドは今国王なのよ。私が仕えるべき対象になってしまってるってこと!」
作り笑いがみるみるひきつっていくのを止められずそれが限界に達したところでフレッドは露骨に歯を食いしばって混乱する頭とひきつる口元を制した。
「冗談じゃない……っ。俺は国王になるつもりなんてないしあんたの助けも必要ない!
どっかの国王に仕えたいんだったら勝手にそうすればいいだろ? 頼むから巻き込まないでくれよっ……!」
「ちょっと!」
何度目かの限界だ。見極めてフレッドは廊下を一気に走り抜けた。
もう赤いスポットライトはない。ベルトニアで迎える二度目の夜が迫ってきていた。朝にはいち早く太陽が、夕方には赤く染まり夜には月を映す、そんな光景をこの廊下は繰り返す。フレッドはそれがむしょうに懐かしく羨ましく思えた。穏やかで同じことを繰り返す日常という光景が、彼の左頬を照らしていた。