汗だか雨だか見分けにくい雫がダラダラと猛スピードで床に落ちる。せき止めるもの(髪の毛)が無いせいでその光景がはっきりと見て取れた。
「いやぁ、この方が何かと落ち着くんでな。助かったよ、お嬢ちゃん。まさかこの時期こんな大荒れするとはなあ」
軽快な笑いでクレスの肩を叩く。おうひとりのスキンヘッドは恐縮そうに絶えず頭を下げていた。そしてもう一人、最後に引き上げたのは小柄で、スキンでは無さそうだったが頭からすっぽりフードを被っていて顔すら良く見えない。フレッドだけでなく、クレス、ルレオの視線が一気に訝しげに変わる。
「ああ、こいつ人見知りが激しくてね。元からこうなんだよ、気にしないでくれ」
慌ててそんなフォローを入れられても怪しいものは怪しい。先刻から一言も喋らないのも気にかかった。
「あの……その人」
「あ、ほんとにそういう人なんですよ。別に害もないですから」
また別の壮年の男がフォローする。今度は少々だが説得力があった。曖昧な返事をしてフレッドは頭をかいて誤魔化す。
そうして数時間、ろくに身動きも取れないまま奇妙なメンバーは談話を続けた。他愛のない会話はいつしか一行の奇妙さを和らげたがそれでもフードの男は一切喋らなかった。渡された紅茶だけを静かに口にしている。
(この人……やっぱり変。気は抜けないか)
クレスには絶えず懸念が渦巻いていた。職業病と言えばそれで終わりだが、そういった視線で彼らを見ているのは何もクレスだけではない。
(あのフード……さっきからやけに俺ばっかり見てないか……? 怪しいの通り越して気味悪いな)
見ている、と言っても体の向きがフレッドを差しているに過ぎない。がフレッドは痛いほどの視線を彼から感じ取っていた。見つめられている、というよりは監視されているような嫌な緊張感を覚える。
「はーん、それであんたたちはファーレンから来たってわけね。天気予報見ろよ、ちゃんと。まあどっかの気象予報士気取りは晴れっつってたけどな」
そんなことはお構いなしの男もいるにはいる。ルレオはすっかり漁船組と馴染んで世間話に花を咲かせていた。フレッドとクレスが胸中でいろいろなことを模索していた間に打ち解けたようだ、今や彼は何の違和感も抱かないだろう。ルレオとくだらない冗談をかわす親父三人衆を見てクレスは大きく嘆息した。
(そんなに心配することもないか……。あんまり疑うのもこの人たちに悪いし)
クレスの謙虚な思考とは裏腹にルレオはお構いなしに男の頭を撫で回している。ストレス発散のつもりか、紅茶でハイになったのかは定かではないがどちらにせよかなり厚かましい。
「ばっかだなー。海ってのは気まぐれなんだからいつ嵐が来てもいいようにそれ相応の準備をしとけよ。その点俺たちを見ろ、この落ち着き。この周到さっ。まさに航海の理想の形だな!」
「確かにそうですね。ルレオさんが見張りに立ってなかったら私たち三人お陀仏でしたよ」
「全くだ! 俺たちゃラッキーだったな!」
何を思ってか壮年男たちがルレオを崇め始める。有頂天となったルレオは天狗もびっくりなほど鼻を突き上げて得意になっていた。
「だから何もしてないじゃない……フレッドといいルレオといいこういうときだけ図に乗って」
「何か言ったか、今」
「別に何もっ。喉渇いたなーって言っただけ。紅茶、おかわりは?」
「あ、どうも」
クレスが立ち上がる。差し出されたフレッドのティーカップも持って白々しく紅茶を淹れて誤魔化した。
“即席ルレオよいしょ大会”がごくごく内輪だけで盛り上がっているときも、あのフードの男だけは話に乗ってこない。ただ一瞬フードの下の顔が微笑したような気もする。気もしたがそれ以上気に留めることもなく、フレッドは新しい紅茶にのどを潤した。
「あ、見て外。雨やんでるっ。風も収まったんじゃない?」
不意にクレスが大声を出す。覚えている限りひたすらガタガタ揺れていた窓が、気付けば何事も無かったかのように静止していた。あの風雨でも割れずしぶとく生き残っていたのだと思うと表彰ものだ。
「外に出るか。久しぶりに日光浴したいし」
フレッドが言うより早く他者はほいほい扉を開けて外界へ流れていく。深呼吸する者、大きく伸びをする者、皆長いこと冬眠していたような疲労で一杯だった。それ故解放感もひとしおだ。
「やっぱ太陽だよなー! 穏やかな波、そよぐ潮風、これで一発カモメでも鳴けば完璧だな!」
「同感。嵐の後の快晴はこうでなくちゃね」
ルレオ、クレス、二人の機嫌が久しぶりに直ったのを見てフレッドはいろいろな意味で安堵を覚えた。そしてその安堵が一瞬でかき消えようとは、甲板の床を踏むまで思いもしなかった。
突然の出来事に、フレッドはかろうじて無言を保って大きく目を見開いた。予想外、いや初めはあったはずの予想はまんまと中和されてしまった。フレッドは背中に感じる冷たい感触に全身を強ばらせた。クレスもルレオもこちらには気付いていない。
「……どういうつもりだ」
「おっと、動くんじゃねえぞ。手元が狂って刺さっちまう」
フレッドの背後にぴったりと、スキンヘッドが貼り付いている。おそらく手にはナイフを握りしめて、だ。
「ファーレン王……いや、ルーヴェンスの差し金か? 嵐を使ってうまく俺たちに取り入ったってわけか。……ふざけやがって」
「招き入れたのはそちらさんだぜ」
フレッドは真っ直ぐ前を見て舌打ちした。
「お前の思ってる通り俺たちは新王ルーヴェンス様の暗殺部隊だ。はるばるここまで航海してきたところ悪ぃが死んでもらうぜ」
「暗殺部隊はつるっぱげじゃないと駄目な規則でもあんのか? 笑わせんなよ」
「ほざいてろ。状況は変わらんぞ」
フレッドは、ほざいていれば状況が多少好転すると予測していた。ナイフの位置を探る。視線を残りの二人に走らせる。一か八かでカウンターが利く間合いであることを確かめた。一瞬、
ナイフが背中から離れる、そのタイミングを見計らって──
「キャ! 何いきなりっ……!」
クレスの短い悲鳴に気を取られてフレッド、ナイフ、両方の動きが止まる。そしてそれは一瞬の、言い換えれば最後のチャンスを棒に振る結果となった。
「クレス……! くそ、やられた!」
生真面目そうだったもう一人の男はクレスの手首をねじり上げて一切の反撃を上手く封じていた。耳元で、気持ち悪いくらいすぐ近くで男の声が響く。
「心配いらんぞ、直に一緒に地獄行きだ。お前が動けば女が先に死ぬってだけの話さ、……ナイフから手を離しな、坊主」
フレッドはゆっくり身を引いた。もう自分から行動を起こすのは不可能に近い。残る希望は奴だけだ。半ば祈るような気持ちでフレッドは視線をルレオに送った。
「んだあ……! お前ら揃いも揃って人騙しやがって! 良心ってのはねえのか、良心ってのはよ!」
額に立派な青筋をぶらさげてだだっ子のように喚き散らすルレオがそこにいた。いわばいつものルレオが。フレッドの期待を根こそぎ裏切ってくれる。フレッドはがっくりと肩を落とし、長い長い溜息を空に吐いた。
気持ちがいいくらい速いナイフがルレオを目がけて数本飛んでいくのが見えた。それらは正確にルレオの心臓付近を狙って飛んだが、彼も馬鹿ではない。ギリギリのところで体をねじ曲げて何とか避けきった。船の淵に刺さるナイフの音が快晴の空に生々しくこだまする。
「や、やるならフレッドだけにしやがれ! 俺は見逃せ、タコ!」
もはや怒りの観点もずれている。フードの男はナイフを握りしめて真っ直ぐルレオを目指して走った。