増えた水かさ若干引き、エマを流れる川はようやく落ち着きを取り戻そうとしていた。しかし破壊された橋を始め今も多くの異物を海に押し流している。相変わらず水の色はど
す黒く濁っていた。
クレスはその風景にうずもれるように、じっと川の流れを目で追っている。木片、縄、人、そしてまた木片。時に石材なんかも見受けられるが往々にしてその繰り返しだけのつまらない漂流物だった。そう、たまに人なんてのも無造作に流れてくる。あたりまえだと割り切れば不自然でも何でもなかった。
「……何やってんだよ」
後ろで草を踏みしめる音がしていたのは知っている。声がして、初めてクレスがそちらに顔を向けた。反応を見せたせいで声の主、フレッドもこちらへ近寄ってくる。フレッドが隣に並ぶ頃には彼女は再び川の流れをぼんやり見つめていた。
「あんたが手貸さないからえらい目にあったんだけど。……見たろ、橋。つってもその橋がないんだけどな」
まるで独り言だ、珍しくフレッドから話を振ったが反応はない。と言っても明らかに皮肉交じりであるため仕方がないようにも思えた。大きく嘆息してその場を去ろうとした矢先、クレスの真一文字に結ばれていた唇が微かに動く。
「……これが軍の戦いなら手を貸した。でも今回は違う、ルーヴェンスの騎兵隊と一般市民だった。……分かりきっている結果を促すなんてできない、止めることで……頭がいっぱいだった」
半分踵を返していたフレッドが再び向き直る。何をするわけでもなくクレスと同じく川を見つめた。はっきり言ってこれが少しも面白くないのだが、そうすることでこの微妙な空気に溶け込める気がした。
「でも止められなかった。目の前で傷ついていく人たちを救うことも、守ることも、できなかった。たくさん人が死んだのに……何一つ、役にたてなかった……!」
まだクレスの脳裏には悲鳴がこだましていた。そして今も視界には彼女が何もできなかった証としての亡骸が海に向かって流れていく。
「ここの人たちは」
フレッドは川を追うのをやめた。向こう岸にぽつぽつと明りが灯り始めたのに気づいてそちらを無意識に目で追う。
「自分の町を守っただけだろ。……人を殺すのが目的で武器をとったわけじゃない。あの時戦わなかったとして、町がルーヴェンスの支配下になって、それでお前は良かったって思えるのか?」
クレスの視線を感じる。今度は意識的にエマの明りに目をやった。
「確かにさ、どう考えたって負け戦だった。けど、ここの人たちにそんなこと関係ないんだよ。自分たちの町だから自分たちで守る、それがそんなにいけないことか?」
フレッドの問いにクレスはすぐに答えることができなかった。が考える時間が必要なほどでもない、フレッドが手持無沙汰になったか落ちている小石を川に放り込み始めた矢先クレスは呟いた。
「いいえ。……きっとそれが、普通ね」
「……だろ? 守ってもらうのは確かに楽だけど。でもそうやって戦いを避けてばっかじゃ進歩しない。守ってもらうのが悪いってんじゃなくてさ、自分が守らなくちゃいけないものは自分で……人に任せちゃ駄目なんだ。それがここの人たちにとってはこの町だった、そういうことだろ? 俺たちは加勢しただけ」
クレスが聞き慣れない優しい口調だった。フレッドが小石投げに没頭してもクレスはまだフレッドの声に聞き入っているような居心地でいた。石が水面を跳ねる度にフレッドが指を鳴らしている。
太陽はほとんど西の空に身を隠してしまったのにフレッドは帰る素振りを見せなかった。クレスの隣で黙って(たまに小さく『よっしゃ!』などと言ってはいるが)石を投げる。始めはクレスも薄ぼんやりと石の行方を追っていたが、気づくと子どものように河川敷遊びに励むフレッドの横顔を眺めていた。
「おっ、七段跳び!」
石がリズムよく水面を跳ねていった。誰かに見せたい衝動に駆られてつい高速で振り返ってしまう。生温かい眼差しのクレスと目が合った。
「なんだよ……」
「別に。……ただね、ベオグラードがあなたを選んだわけ、少し分かったような気がする」
「は?」
予想外のことを口にするクレスにまた無意識に一段高い声が出たが、今更だと思って態度を改めるような真似はしなかった。彼女の前で取り繕う必要性をもはやフレッドは微塵も感じていない。それはクレスも同様である。
「うん、決めた」
一呼吸置いて今度はまっすぐフレッドを見る。
「私、あなたに協力するわ。分かってたようできっと分かってなかった……フレッドが国王なんだって意味。あなたが死んだりしたらそれこそルーヴェンスの思うつぼだもの。だからあなたが国王である限り、私があなたを守る」
随分長いこと喉の奥に詰まっていた魚の骨が取れたような爽快感と解放感がクレスの胸を満たした。ここでフレッドも微笑、などとドラマティックに事は運ばない。彼はもろに嫌悪を顔に出してかぶりを振る。
「ちょ、ちょっと待てよ。何勝手に解決してんだ、俺は国王になるつもりなんかないからな!?」
「ああ、勘違いしないで。あなたを守るのはあくまで目的の“ついで”よ。フレッドたちもルーヴェンスを止めるんでしょう? 目的は同じじゃない」
「それは……そうだけど」
反論が見つけられないでいるとクレスは大きく伸びをして河原の土手を登り始めた。先刻まで泣きごとをもらしていた女とは思えない、鼻歌が微かに聴こえてきた。
フレッドは半眼で頭をかいて既に見えなくなったクレスのげんきんさに呆嘆した。
「単純な奴……。世の中あんなのばっかりなら楽なんだけどな」
宿に居る性悪中年や極悪つり目のことを思い出してまた重ねて嘆息を漏らす。世の中が一筋縄でいかないことその存在だけで知らしめてくれる二人が身辺にいれば独り言にも気持ちがこもるというものだ。
日没前後の空の色はぼんやり紫がかっていて神秘的だったが、押し寄せる不幸に慣れてしまったこの若者にとっては神秘もへったくれもあったものではない。頭の隅の方で時間を気にしてフレッドはだらだらと宿に帰還した。
宿の扉を開けるなり店主が爽やかな笑顔をかましてきた。
「おかえりなさいませフレッド様。残りの三名様も含め宿泊代は無料ですのでどうぞごゆっくりお休みくださいませ」
あれだけルレオに無意味に脅されていながらこの対応ができるとは奴もプロだ、などとくだらない感心をしつつ鍵を受け取る。
「それとご伝言がございます。お戻りなられたら地下のカクテルバーをご案内するようにベオグラード様から仰せつかっております。大事な話だ、ということでございます」
おそらくろくな話ではない、分かっていても行かないわけにはいかない。フレッドは店主の営業スマイルを真似して取り繕うとカウンター横の螺旋階段を下りた。木造の古い造りで、軋む音にどこか気品がある。