「もちろん。刺さるでしょ?」
──刺さる。
「さっきも言ったけどそういうことじゃないから、何とも」
私の心臓を貫くくらい深く。その動揺を悟られたくなかった。隠そうとすればするほど心臓は早鐘を打つ。
「あっそう。……フレデリカ」
「何?」
「今日ぐっすり寝てそれでも元気が出なかったら、明日もまたご飯食べにおいで。とびきり美味しいの準備して待っとくから」
眉尻を下げて困ったように笑うレジーナを見れば、自分が平静を装うことに失敗しているということくらいは分かる。
レジーナは私が話さない限り事情を根掘り葉掘り聞いてくることはない。それが有難くて、私はいつも彼女に甘えてしまう。
「……ありがとう。レジーナが思ってるような複雑な悩みを抱えているわけじゃないから、心配しないで。グラタンも凄く美味しかった、ごちそうさま」
私はカウンターに代金を置いて、席を立った。小さく手を振るレジーナに、精一杯の笑顔を返してその場だけは取り繕って店を出た。
外がやけに明るい。自己主張の強い、見た目だけはまんまるな月が、街路を青白く照らしていた。今夜の月は満月ではない。私たち魔術師にとっては特に意味を持たない、なりそこないの月だ。それでも今夜の月を見上げて、美しいという人がいて、ロマンチックだと言う人がいて、欠けていることにさえ気づかずに、満たされた気持ちになる人もいる。否、多くの人にとって、月は満月だから美しいわけではないのだろう。
夜の店前通りは静寂に包まれている。それなのにキリクの声が、ジョセフの声が、レジーナの声が、そしてハイスの冷えた声が頭の中で渦を巻きながら繰り返し再生されていて、私の脳内だけはずっと騒がしかった。
私は私自身をぞんざいに扱っているつもりはない。そうかといって誰かから大切に想ってもらえるような、そのために心を砕いてもらえるような資格のある人間でもない。私にはそもそもはじめから誠実と呼べるような思いがひとかけらもないのだから。
自分の店の入り口に立って、深呼吸をしなければならない日が来るとは夢にも思っていなかった。はじめから分かりきっていた、大前提を心の中で反芻する。
誰にも大切に思われなくて構わない。私が誠実であるべき相手は、これからもたった一人でいい。
Side A:Hyth
地下室の床に大の字に寝ころんで、僕はひたすらに天井とにらめっこをするという生産性の欠片もない時間を過ごしていた。頭上遠くで、微かにドアベルの音がしたのに気づくと、すぐさま身体を起こす。フレデリカが戻ったのだろう、条件反射的に壁掛け時計に目をやって時間を確認してしまった。何かを勘ぐるような時間ではない。行き先も何も聞いていないが、レジーナのところで夕食を済ませ、そのまま寄り道せずに帰ってきた、というところだろう。
何がご自由に、だ──言い放ったからには、フレデリカの行動に干渉すべきではない。それくらいわかっている。とはいえ、僕は早々に後悔を始めているし、もう一度話をしにいこうか思い切り悩んでもいる。そうこうしているうちに、頭上のフレデリカらしき足音は、真っすぐ寝室に向かってしまったから、僕は諦めてまた天井を見つめ続けることにした。
満月でもないのに、月が明るすぎる。明かり取り用の天窓からは、いつもと変わらず月光が差し込み、それは当てつけのように僕を、この部屋を幻想的に照らし出す。このまま眠るにも、考え事をするにも向いていない夜だ。でも僕は、考えずにはいられなかった。
あの人形師──キリクが、フレデリカをどういう目で見ていたか、僕が一から十まで説明していれば話は違っただろうか。いや、そうしたところで「大した問題じゃない」と一蹴されるのが関の山だ。想像だけで眩暈を起こしそうである。
キリクが作った人形たちには、皆ある共通点があった。ほくろだ。メイド人形は目尻の下に、紳士人形は差しだしたその右手に、風船を見上げる少女は顎に、それぞれ色や大きさにこだわりを感じるほくろがあった。顔を覆って泣いていた喪服の人形も、おそらくどこかに付されていたと思われる。
人間、身体のどこかにほくろくらいある。リアリティを追求するなら、それを寸分違わず再現しようとすることに違和感はない。でも──あれは違う。そういう代物ではない。キリクにとってはあのほくろこそが、一で全なのだ。その狂気めいた嗜好に気づいてしまったから、僕は早い段階で警戒だけはしていた。キリクが「人形にしたい」と思う基準を、フレデリカは満たしてしまっていたからだ。フレデリカは自分のうなじにほくろがあることを、たぶん知らない。
(で、それを洗いざらいフレデリカに言ったとして、気持ち悪がられるのは僕の方では?)
本人も知らないほくろの所在を僕が前々から知っていたとなれば、それだけで十分気持ち悪い。しかもそれが、よりにもよってうなじなんかにあるせいで、一歩間違えば僕は日々フレデリカのうなじを観察していたとんでも変態野郎の称号を与えられかねない。
自分に言い訳するのも妙な話だが、僕がその存在を認識しているのは、神に誓ってたまたまだ。フレデリカは一旦机に向かうと、前傾姿勢になって集中することが多い。それを、その「後ろ姿まるごと」を視界に入れていると、いつもたまたま髪の隙間からほくろが見える。僕は別にほくろフェチというわけではないから、フレデリカのどこにそれがあるとかないとかを重要視したことはないが、見えてしまうものに関しては「ああ、あるんだな」くらいに認識するのは至って普通のことだと思う。
(で、それを正直にフレデリカに話したとして、とにかく何にも事態が好転しないわけで……)
溜息をつきながら寝返りを打った。
僕は、問題をそれらしいものに挿げ替えようとしていることに、自分で気づいている。どうやったらフレデリカの興味を人形から逸らせることができるか、どうやったら彼女が正しく自分の価値を認めて正しく危機感を持ってくれるか──僕が苛立っているのは、本当はそこじゃない。
──じゃあハイスも、私をモノ扱いするのはやめてほしい──
瞼を閉じると、フレデリカの声が鮮明に蘇る。
(フレデリカはモノじゃない……。そんなことは分かってる。あたりまえのことだ)
でもフレデリカにはそう思わせていたし、それはきっと僕のこれまでの態度が原因なんだろう。事実僕は、彼女の献身に対して最初こそ戸惑いを覚えていたものの、今ではそういうものだと当たり前に受け取るようになっている。口では彼女を尊重するようなことを言いながら、無意識に、自分の思い通りにしたいという欲求が生まれ育っていたのかもしれない。
そうだとすれば、意識すればいい。意識して改める良い機会だったのだ。
フレデリカはモノじゃない。ましてや僕のモノじゃない。僕だけのモノになったりしない。その願いは叶えていい類のものじゃない。
僕はもう一度寝返りを打った。詰めていた息を、思い出したように天井に向けて一気に吐く。鼓動が早い。僕は何かに緊張している。おそらくは自分の思考に。持った感慨に理解が追い付いてこない。
"願い"という詞が、僕の中で湧いて出てきたことに衝撃と気持ち悪さが混ざり合う。これは自分の望みなのか、僕の中の悪魔がそうさせているのか、いずれにせよ僕の思考が良くない方向に進んでいることだけは確かだ。
半身を起こしてゆっくり息を吸った。明るい視界がとにかく鬱陶しい。満月でもない月が、僕を狂わせてくる気がして、ただ恐かった。
#6 Side B/A
