ザントマンが地下室の扉に手をかけた矢先のことだった。それまで休む間もなく叫び続けていたサミジーナが、スイッチが切れたかのように黙り込んだ。場は水を打ったように静まり返る。その両の金色の瞳には、グリムロックの姿が映っていた。
「お前……お前だよ! あたしを外に出すと……器を用意すると言った! 宿主様と話ができると! だからあたしは……っ」
「んん~? 私、かい?」
「とぼけるな! あたしはお前と取引したんだっ」
「おお、そうだった。ハイスならほら、目も覚めたみたいだし話してみたらいいんじゃないか?」
僕は、僕自身がこの状況で話題にあがることを想定にいれていなかった。だから目配せという名の、丸投げ行為に及んできたグリムロックに対して、間抜け面で自分を指さすことしかできない。
「宿主様……、あたし、あたし毎晩頑張ったの。宿主様が喜んでくれるようにっ。良かったでしょ? だって毎晩あんなに真剣に応えてくれていたもの。あたし、わかってるの。宿主様も、あたしを求めてくれるでしょ?」
「ふぅ~っ! あっついね!」
「若いのぉ~!」
「ちょ、二人とも、黙ってください。話が意味不明な方向に……」
勘弁してほしい。グリムロックもザントマン老師も完全に面白がっている。僕はまだ状況の整理が追い付いていない状態で、"正解"を選ばないといけないという緊張感に晒されていた。ここでの"不正解"は禍根を残す。それはこの場で絶対にやってはいけない所業だ。そう、覚悟を決めた直後──。
「飽きたって」
僕のために用意された謎の崖っぷち舞台に、僕を押しのけて仁王立ちしようとする者がいる。一度言い出したらこっちの話は聞かない、血の気の多い最強魔術師のフレデリカさんだ。
「……は?」
それは僕がやりたかった反応だ。サミジーナが、今まで聞いた中でも一番の低音で、苛立ちの表意と相手を煽ることに特化した一字をしっかり発音した。
「だから飽きた、って。毎晩同じ夢見せておいて『がんばってます』はないでしょう」
「同じじゃないわ。あたしなりに工夫して、少しずつ見せ方も変えて」
「ああ、そう。だから日ごとで間違い探しレベルの差異が生じてたってわけ。悪魔の古ぼけた感覚だとどうか知らないけど、私たち人間はそれを『同じ』と言うの。変わり映えしない、とも。ハイスを苦しめたくてわざとやってるのかと思ってたけど、聞けて良かった。単純に能力が足りないだけみたいで」
「黙れぇぇえ! この※☆△□*女あああ!」
ひどすぎる。何がってもう全部が。この悪魔とフレデリカの相性の悪さは、聞いてはいたが想像以上の泥仕合だ。面白半分で囃し立てていたグリムロックとザントマンも、今となっては明後日の方向を見て我関せずを装っている。
「あんたは殺す……一番先に! あたしが殺してあげる! あんたは、宿主様の夢の登場人物になれるのかしら? ああ楽しみ! 想像するだけでぞくぞくしちゃう!」
「本当に羨ましいくらいおめでたい頭してる。殺す? 私を? その爪も牙もない器で? ……ハイスの身体から出た瞬間に、灰にしても良かったんだけど。私はこの空間で、それができるから」
フレデリカの手に魔導杖は握られていない。でもあれは、彼女の魔法の精度を調整するためのもので発動に必須なわけではない。
「まだ命の手綱が自分にあると思ってるの、本当に滑稽」
フレデリカはその気になれば、壁にもたれかかったままでこの部屋ごと吹き飛ばせる。そういうレベルの魔法を使いこなせることを、僕もグリムロックも「魔術師登録書」で確認しているし、たぶんザントマン老師も知っていると思われる。
誰が止めに入っても良かったけれど、何となくそれは僕の役目のような気がした。
「やめましょう。なんでそんなに煽るんですか……」
「悪魔はきらい」
「知ってます。でもこれ以上は弱い者いじめです」
喋る(下品な言葉限定で語彙力が高めの)黒猫ぬいぐるみは、息を殺すみたいに黙り込んでしまった。フレデリカはフレデリカで、僕の直球の窘めに目を丸くしている。騙すなら騙すで、丸めこむなら丸めこむでもう少し最後まで緻密にやればいいのに、この人たちはこぞってそのあたりが雑すぎる。
「ふぉふぉ。ハイスの言うとおり。こやつはほれ、私が責任を持ってしつけておく。フレデリカがこれ以上サミジーナのことで頭を悩ます必要がないようにな。それとも私だと心配かね?」
静かにかぶりを振るフレデリカ。この老齢の魔術師は、おそらくフレデリカの絶対的信頼のもとにここに呼ばれている。あたりまえのように僕と僕の中の悪魔のことを知っているのが、その証拠だ。
「それだから、しっかり休養を摂るんじゃぞ。寝不足は美容の大敵じゃ」
素直に頷くフレデリカを見て、ザントマンはそのまま顎髭をはためかせながら地下室を後にした。もちろん黒猫に憑依したサミジーナを抱えて、だ。
これでようやく、僕の中から二体目の悪魔が出ていったことになる。疲労てんこもりの溜息が、勝手に口から深々と吐き出されていた。
「あのおじいさん、何者ですか?」
僕の当たり前かつ素朴な疑問に、フレデリカは言葉を詰まらせている。申し訳ないが、この状況では質問しないほうが不自然だ。
「贔屓の……常連さん」
無理があるなあと思いつつ言及はしない。フレデリカが必死に考えて出した答えなのだから尊重してしかるべきだ。まあ本当に、無理があるけれど。
「さ。それじゃあ一段落したようだから、私は業務に戻ろうかな。おっとその前に仮眠くらいはしておかないと、寝不足は美容の大敵らしいしな」
「グリムロックさん、ありがとう。結局無駄足になってしまったけれど」
「万全を期すという意味では良い判断だったんじゃないか? 担当地区の魔術師の困りごとには、しっかり対応しておかないと後々面倒だしね。しかし最後のサミジーナの萎縮っぷりはなかなか傑作で……あぁぁっ!」
忘れていた重要な何かを唐突に思い出したときの典型的な反応だ。それにしても、そんなに腹から声を出さなくても良いのではないかとは思う。僕もフレデリカも、早鐘を打つ心臓を押さえてグリムロックを半眼で見やった。
「あ~すっかり忘れていたな。サミジーナの望みを叶えたら、私も夢を見せてもらう約束だったんだ。この感じだと反故にされたか?」
後ろ手に頭を掻きながら、既に姿のないザントマンと黒猫ぬいぐるみの姿を視線で追う。
「まさか本気だったの……」
「本気も本気、いっそ楽しみにしていたまである。だって夢の中で死んだ者に会えるんだろう? 二人ともそんな顔するが、必ずしも悪夢とはいいきれないのではないか?」
「いや、悪夢ですよ。ものすっごく。クオリティ高い」
信じられないとばかりに小刻みにかぶりを振るフレデリカ。そこまで分かりやすい拒絶はしないが、気持ちはフレデリカと同じだ。
「グリムロックさんが思ってるようなのじゃないんですよ。僕じゃなければとっくの昔に発狂してるというか、自我が崩壊してるというか」
「そうか、そうだな。すまない、つい興味のほうが先走ってしまった」
グリムロックの苦笑は、自らの軽卒さを窘めるためのものだったが、そこには僅かに僕への憐憫も垣間見られた。
「君はあちらの世界に、今も会いたくなる人はいないのか?」
#7 Side A
