月に吠える#7 Side A

 多くの人が胸に抱く、亡くなってしまった大事な誰かの記憶──思い出が僕にはない。普段は気に留めないようにしている。その暗闇は、少し触れただけで僕の全てを呑み込んでしまう気がするから。そういう意味ではブラックドアに似ているかもしれない。でも僕は、自由自在に扱えるドアと違って、この暗闇を飼いならせる気がしない。できるだけ向き合わないようにするという消極的な対処法しか実践できずにいる。
「……残念ながら。今の僕は何も持っていないので」
 グリムロックは、そうか、とだけ呟いて哀しそうに笑った。僕の境遇に同情を寄せているのだと思う。でもそれだけでない、もっと深い悲しみがその短い呟きに込められていた気がした。グリムロックにもきっとあるのだ。夢の中だけでもいいから、もう一度会いたいと思う誰かの思い出が。
 その後すぐ、直属の部下だという男が迎えにきてグリムロックを回収していった。以前挨拶に来たときにも終始情けない声をあげていた優男だ。グリムロックのふるまいは権力のあるなしに関わらず、規律正しい組織では厄介なものだろうから、部下の心労たるや想像に難くないがそれはまた別の話。僕らには僕らの、疲労というものがある。
「は~これで、あと2体ですか。先は長そうですねー。でもこの調子なら、思ったより早く『元のハイス少年』に戻れそうですね」
 全てのゲストにお引き取りいただいた結果、フレデリカと二人の朝に戻る。1階への階段を上りながら僕は思い切り伸びをした。
「そんなに一筋縄じゃない。……一番下に一番厄介そうなのが残ってる」
「じゃあやっぱり英気を養っておかないと」
 ジョセフが朝食の準備をする忙しない音が聞こえる。フレデリカと二人、静かな朝だとかいうのは僕の都合の良い幻想で、実のところ朝はだいたい調理器具をひっかきまわす音とジョセフの下手くそな鼻歌でやかましい。
 それでも身体は軽い気がした。今日は僕が朝食当番を肩代わりしてもいいかもしれない。
「ハイス。何かしたいことはある? ほしいもの、とか」
 廊下の中腹でフレデリカが唐突に立ち止まる。真剣と呼ぶにふさわしい面持ち。ただし盛り上がってきたジョセフの鼻歌を背景音楽にしているから、フレデリカには悪いが物凄くシュールだ。ここ最近の彼女は、真面目な顔つきを作るタイミングがここぞとばかりにずれている。
 焦らそうだとか意地悪なことを考えたわけではないが、すぐには応答してあげられなかった。その御用聞きについては、ついこの間済ませたばかりだからだ。
「浄化後の今なら、もっといろいろできると思って」
「ああ、なるほど? 打ち上げみたいなものですね。したいこと……したいことかー。フレデリカはありますか? フレデリカがやりたいことをやる、が僕のしたいことですね」
 狡いうえに、少し恰好をつけすぎた答えだとは思う。本音を言えば自室で何の憂いもなくぐっすり眠りたい、というのが僕の当座の希望だったが、フレデリカが求めているのはそういうことでもなさそうだ。
 案の定、フレデリカは見事に困惑してくれた。
「そういう、ことじゃないんだけど」
「この前は結局僕のやりたいことに付き合ってもらったじゃないですか。だから今回はフレデリカのしたいことにしましょう。次回までに僕もやりたいことを考えておくので」
「だったら、……怒らないで聞いてほしいんだけど」
「はい」
「キリクさんのお店で人形を作ってもらいたい」
 爽やかさを意識して作った僕の笑顔は、フレデリカの突然の爆弾投下によって凝固してしまった。爆弾、を変化球として投げてくるのはさすがにレベルが高すぎる。
 廊下に響くジョセフの鼻歌はクライマックスに達していた。僕は不用意な自分の発言に少しだけ後悔しながら、小さく嘆息する。
「わかりました。……怒る権利も止める権利ももともと僕は持っていませんし。ただその、一緒に行ってかまいませんか? どうしても、心配なので」
「それでかまわない」
 そういう無機質な台詞ほど、いつもの低品質ポーカーフェイスで済ませてくれればいいのに、フレデリカの表情筋はやはりどうも感度がおかしい。今のはそんなに嬉しそうに笑うところじゃない。僕がこの間みたいに嫌味たらしく反論するのを、警戒していた故の安堵だとしても。
 僕は無意味な咳払いをして、いつの間にか静かになった鼻歌シンガーの様子を伺いにキッチンへ向かった。




 サミジーナを僕の身体から追い出して、三週間ほど。僕とフレデリカは規則正しい生活とやらを心がけて日々を過ごしていた。二体の悪魔と対峙して思い知ったのは、どんな職能のどんな性格の悪魔であれ、封印を解いてしまえば僕らの安眠は徹底的に奪われるということだ。この、そこまで大事でないようなストレス要因が、ものの見事に全てを台無しにしてくる。一事が万事、蟻の穴から堤も崩れるとはよくいったものだ。
早起きして適切な時間に労働し、栄養のある食事と他愛ない会話を楽しみ、よく笑いよく動き、夜はまたぐっすり眠る。特別なことをしなくても、生きている身体はこういうサイクルをきちんと喜んでくれる。過度のストレスで色素が抜けてしまった僕の髪も、根本はもう元のブロンドだ。フレデリカの目元のくまも同様に、今は跡形もない。万歳、健康生活である。
 この三週間の間に、僕は仕事面でも満足のいく成果を着実にあげられている。まず、地下倉庫に打ち捨てられていた大量の「青く光る灯石」の売買経路が整った。顔の広い常連に無料同然の安値で売って地道に評判を上げ、バートックに仲介を頼んだうえで信頼できるバイヤーを確保、結果思った以上の店やイベント会場で定期購入してもらえるようになった。今後は店頭にも置いてもっと知名度をあげれば、競合店との差別化にもつながる商品になるだろう。
 それから、毎朝のハーブティー試飲会も実を結ぶまであと一歩という段階まできた。これについては諦めずに試行錯誤を繰り返したフレデリカの功績が大きいのだが、涙が出るほどの不味さを毎朝検証のためにしっかり堪能した、僕の忍耐強さも表彰に値するもののはずだ。苦みと独特なにおいはまだ残っているが、これが何故だか癖になる。鉄分たっぷり滋養強壮という効能については、はじめから折り紙付きなわけだから、人間が飲める味と香りに落ち着いた現段階なら商品化しても問題なさそうだ。来客があればサービスで出してもいいと考えている。
 他にもこまごました営業計画は進行しているのだが、いずれも僕ひとりが奮闘すれば済むという話ではないから、フレデリカにもジョセフにもまずまずの負担を強いている。が、本人たちは僕が提案することは、ほとんど楽しんでやってくれる。この調子でいけば帳簿から赤い字が消える未来も、そう遠くはないかもしれない。
 店が軌道に乗ってきた。それはとても喜ばしい現実であると同時に、僕にとっては生々しい現実逃避でもあった。
「そろそろ次の悪魔をなんとかしないと、って時期じゃないですか」
 キッチンの調理台の上で、僕とフレデリカは仲良くある物体をこねていた。残念ながらそれはパン生地でもひき肉でもなく、ゴーレムの主材料になる魔力粘土だ。僕はこの作業が好きでもなければ得意でもない。ただゴーレム生成において手伝える工程が、この力技の部分だけだから仕方なくそうしている。
 以前は、地下の研究室でゴーレム制作を行っていたらしいが、今現在そこは完全封印部屋と化しているわけだから錬金にも研究にも向いていない。それでこうして、木漏れ日差し込むうららかなキッチンで粘土をこねている。確かにやっていることは、調理に似てはいる。
「そうだね。私はいつでもかまわないけど……、もう少し冷却期間をおいてもいいかも」
 二度の悪魔送還で、封印を解くタイミングを決めてきたのはフレデリカだった。今回そのインターバルがやけに長いことが気にかかっていた。フレデリカの煮え切らない態度を見て、僕は何となく感じとっていた気配のようなものを確信に変えた。次にフレデリカが言いそうな台詞に想像がつく。


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