月に吠える#7 Side A

「無理をしてほしくない」
「そんな考えだろうと思いました。いいですか、フレデリカ。僕らがやろうとしていること自体が前代未聞の悪魔送還なわけですから、どう頑張っても無理はちょっと必要です。でもほら、二度とも頑張ったおかげで、息抜きの必要性とか頑張りすぎの境界線とか、分かるようになったじゃないですか。次はそのあたり、うまくやれるんじゃないですか?」
 無理をしてほしくないのは僕も同じだ。でも言っていることに嘘もない。
「……そうありたいとは思ってる。じゃあ明日の夜、準備が整い次第」
「了解です。じゃあ体力がいる仕事は今のうちに片付けておきたいです、ねっ」
「ハイス、魔力粘土はもう少し優しくこねる」
「えー、あー……はぁ~い」
 優しくこねてうまくいくのはフレデリカの魔力操作が秀逸だからであって、僕のような二流魔術師にそのあたりの繊細さを求められても大変困る。いや、やっぱり今のはなし。僕はゴーレム生成が格別苦手なだけで、二流というわけではない。一流と二流の、中間くらいをさまよっている一般的な練度の魔術師だ。
 何はともあれ、僕らは悪魔との第三戦目に突入することにした。


 地下封印部屋にて、過去二回と全く同じ手順で左手首の封印を解く。赤く滲んでいた二重の円環は、内側の円を残して綺麗に消えていった。毎度のこととはいえ、フレデリカの解析と解呪の鮮やかさには舌を巻く。ここまで滞りなく終えたら、後はザントマンの砂を飲んで眠るだけだ。僕はリラックスして中央の椅子に座ったまま、準備をしてくれているフレデリカの背中をぼんやり眺めていた。そのとき何かが頭の片隅にひっかかるのを感じた。
(今、なんだ……? 何か、見落とした気が)
 フレデリカのうなじから、ほくろが覗く。真後ろにあって、こういう単純作業に集中しているときだけ見えるから、やっぱり本人は知らないだろうな──だとかは、今は関係ない。そうではなくて、僕はこのとき満を持して登場した別の物事に対して、今の今まで見落としていたことに気づいたのだ。自分に対してまた深めの、わざとらしい嘆息が漏れ出てしまった。
 そんな僕の様子をしっかり勘違いしたフレデリカが、右手に水の入ったコップ、左手にザントマンの砂が乗った薬包紙をそれぞれ握って立ち尽くしている。
「すみません、気分が悪いとか疲れているとかじゃないので気にしないでください。……いや、やっぱりちょっと気にしてください」
「……どうかしたの」
「それ」
 僕は少し開いていた両足の間に沈み込むように項垂れた。恨みがかった目で指したのはフレデリカの左手だ。
「ひょっとしなくても、作ったのは"先生"ですか?」
「? そう。言ってなかったっけ?」
「言ってませんし、聞いてません」
「……怒らなくても」
「怒ってませんし責めてもいません」
 ただ少し拗ねたくはなっている。フレデリカはザントマン老師との関係を話そうとしない。隠そうという強い意志も感じないが、僕が聞いても必ず適当にはぐらかす。見えている限りでは二人の間には信頼があるようだから、とりわけ何かを心配する必要はないとは分かってはいるけれど。
「ザントマン先生のことは……ハイスだけじゃなく、他の皆にも私から紹介したりはしていない。先生自身が話さないなら、私が勝手に話すわけにもいかないから」
 人にはそれぞれ事情がある。ザントマンにもフレデリカにも、当然僕にも。僕はフレデリカを困らせたいわけではないから、もちろんそれ以上の追究はしない。本当に気になるなら、僕自身がザントマンと交友関係を築いて聞けばいい。それはそれとして。
「もうちょっと僕のことも頼ってくれていいんだけどなー」
「何か、言った?」
「いいえー? もうちょっと離れておかないと危ないですよーってだけです」
 水と砂を受け取って、一気に喉の奥に流し込む。飲み込んだ直後から意識が無くなるから、次に「ハイス」としてフレデリカと話せるのは明日の朝だ。
 僕はいつも祈りながら眠る。起きたら不機嫌をひた隠しにした無表情のフレデリカが入口扉の前に立っていてくれること。ジョセフも交えて朝食を摂りながら、悪魔の文句を一生懸命語り始めること。そういういつも通りの朝が当たり前に訪れるように、祈って眠る。僕がこんなに何もかもを恐がっていることを、きっとフレデリカは知らないだろう。知ってほしくない。それが僕の事情だとしたら、僕にも彼女に積極的には話せない心境というものがあるということだ。そんな当たり前のことにどこか少しほっとして、僕は今夜も簡易の死の世界へ身を委ねる。


「それで? 三日も経つというのに、まだ本性を現さないのですか? 三日もこいつはただぐーすか寝て夜を過ごしていると?」
 そう、その通り。ジョセフがはたきの柄で頬をつついて攻撃してくるのを、僕はかわしもせず反撃もせず、ただ耐えていた。カウンターに偉そうに座って良いご身分、などと嫌味を言われそうではあるが、一応仕事はしている。さっき納品された灯石と氷柱石の検品という地味な仕事を。
「サミジーナのときのように何か兆候があるわけでは?」
「ないねー。夢を見るわけでもないし」
 お前には聞いていないとばかりに、ジョセフが無言のままはたきの柄をぐりぐりしてくる。首の下は今日寝違えたところだから実は良い塩梅になっているとも知らず、ご苦労なことだ。
「あ、でも寝る前に全身がむずむずする感じがしますね。虫はいないけど虫が這ってる、みたいな」
 少しでも違和感があるなら口にしておいたほうがいいかと思い、感じたままをありのまま述べた。情報としては不足しているのが分かるから、フレデリカが反応しづらそうにしているのも頷ける。もしかしたら、宿主をむずむずさせるのが職能の悪魔もいるかもしれないと思って一縷の望みに賭けてみただけだ。
「今日一応、清浄石も使って念入りに掃除をしておく」
「僕も手伝います。雨が続いたから湿気がこもってるのかもしれませんね」
 第三の封印を解いた夜から、天気がずっと悪かった。いつもなら煌々と月明かりの射す地下室は、本来の鬱屈さと圧迫感を以て僕の精神状態にも悪影響を及ぼしている。とはいえ、晴れたら晴れたで必要以上に月光を取り込んで、鬱陶しいくらいに明るくなるからどっちもどっちではある。改めてあの場所は寝室にはふさわしくないと再認識することはできた。
 こうしている今も、空は降るのか降らないのか決めかねているように、はっきりしない。
「夜には久しぶりに月が拝めるようでございますよ」
「ってことは、また明るくなるのかぁ。フレデリカ、あの天窓なんとかなりませんか? あれ魔法実験用ですよね? なんかこう、入眠にはふさわしくないというか気持ちがざわつくというか」
「それも……遮光できるのものを探してみる。今はどうせ実験には使わない部屋だし」
「助かります。気になってたので」
「フレデリカ様、月夜に乗じて悪魔も正体を現すやもしれません。どうかお気を落とされませんよう。お疲れでしたら夜の見張りはこのジョセフにお任せください」
「全然それは。まだ三日目だし」
「いや、そうしましょう。もう三日です。ジョセフに任せて、今夜は早めに寝る日にしましょう。夜は僕も何も手伝えないし、フレデリカだけ頑張るのはなしです」
 ジョセフにしては良い提案だ。こいつと見解が一致するのは面白くない、というか癪だが、「何もない日が続いていつ始まるか分からない」というのが一番疲れる展開であることは、自明の理だ。疲れたら休む、ではなく、疲れる前に休む、が最良ではないか。
 完全には納得していない表情のフレデリカをよそに、僕とジョセフは目くばせで即席のタッグを組んだ。異変が起きたときの対処手順はもちろん、ゴーレムへの指示内容、朝ごはんの時間まで入念に取り決めてフレデリカが口を挟む余地を無くしておく。


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