月に吠える#7 Side A

 かくしてその夜──月の美しい静かな夜だった──僕とジョセフは、フレデリカに少しでも長く、安眠の時間を確保しようという目的の下、互いを信頼して協力し合うことにした。
 結果から端的に述べる。計画は大失敗に終わった。僕らは翌朝、いや早朝とも違う夜が明けきる直前に、全員が寝不足、疲弊した状態でダイニングテーブルに集合することになった。ひとまずは、その夜起きてしまった今までとは一線を画す非常事態について、思い出せる限りでまとめておこうと思う。


 地下と1階をつなぐ階段をジョセフが騒音をまき散らしながら駆け抜けていた。そのあまりの騒がしさに目を覚まして、眩しく光る天窓を仰ぎ見る。月の位置からいってまだ完全に真夜中だ。また派手に寝違えたのか全身が強張って思うように動かせない。無意識に舌打ち、を試みてそれさえもどうもうまくいかないことに気づき胸中で毒づいた。
 僕は毎度のごとく地下封印部屋の床でブランケットにくるまっていた。だから実際に目にしたわけではないが、どたばたと走り回っているのがジョセフであることは確定できる。「フレデリカ様っ!」という半狂乱の叫び声がひっきりなしに聞こえてくるからだ。
 何かが起きた、ということだけは瞬時に理解できた。しかし、それが自分の身に起きたことだと理解するには段階があった。
 まず、立ち上がろうとして自重を支えるだけの力が足に入らないことに気づいた。寝起きであることを差し引いても妙だ。それに感覚。五感のすべてが異常なまでに研ぎ澄まされていることが分かる。僕は聞こえてくる音や、振動、それに匂いのようなもので、ジョセフがフレデリカの寝室に乱入して彼女をここまで連れてこようとしている光景を感じ取ることができた。それが白昼夢のようなものでないことは、地下室の扉の前にたどり着いたであろうジョセフの汚い絶叫が証明してくれる。
「フレデリカ様っ、危のうございます! 私がっ! 私が先に!」
「いいから。扉だけ開けて、ジョセフは下がって」
 フレデリカの静かな、しかし切迫した声が、扉を介してなお鮮明に届く。
 殺意とは違うけれど、扉の向こうから僕に向けられている感情が刺すような痛烈なそれだということが不思議と分かる。緊張と恐怖で全身の毛が逆立った。出したくもない低い、妙な唸り声さえ口から漏れた。
「わあああああ! フレデリカ様ぁぁぁぁ!」
 その掛け声とともに扉は開かれた。ジョセフの渾身のタックルによって。
 僕の視界を支配したのは、魔導杖の先端をこちらに突きつけるフレデリカの姿だった。見たことがある光景だ。剥き出しの敵意も、初めて会ったときときっと同じで、それは彼女が心の底から嫌悪する「悪魔」という存在に向ける極めて真っ当な感情だ。それが肌に刺さって痛い。
 フレデリカが魔導杖を強く握り返す。この一瞬の対処を誤ったら、僕が辿り着く結末はこの部屋ごと粉みじんになるか、良くて全身の骨を砕かれて軟体動物と化すかのどちらかだ。
 ちょっと待ってください! ──あのときと同じように、ひとまずそう言おうと思った。それができない。僕は喃語のような、自分でも何を言っているか判然としない音声を垂れ流しただけだった。
「……ハイス……?」
 必死さだけは伝わったのか、フレデリカが訝し気に僕の名を呼ぶ。
 僕の身に何かが起きている。けれど、その全貌が把握できない。思うように四肢が動かせず、喋ることもかなわない。せめて身を起こしたいと思って、情けなくも四つん這いの態勢を取るとこれが思いのほかうまくいった。
 視界からフレデリカの姿が消え、自分の手足と床を見つめることになった。それがきっかけなのか、ここまでの集大成なのかもはや不明だが、僕はその瞬間、急速にかけのぼってきた胃液を床にぶちまけていた。
「ハイス!」
「うわああああ! フレデリカ様いけません! 戻って戻って! 近寄らないで~!」
 腹が立つ、とんでもなく。部屋に入ってくる直前まではナイト気取りで先陣を切っていたくせに、いざ僕を前にすると、ジョセフは入口扉に虫のようにへばりついたまま一歩も動く気配がない。──訂正。ジョセフは元からコガネムシだ。というのは半ばどうでもよくて、言動に関しては今回ばかりはジョセフが正解なのかもしれない。僕は駆け寄ってきたフレデリカから、できるだけ距離をとりたくてふらふらと後ずさった。
「逃げないで、大丈夫だから。……ゆっくり、座って」
 それが残念ながら、全然大丈夫じゃないんですよ──そう言ってお道化られれば、僕自身も含め全員安心させることができたのに。実際は言葉を発することができなくて、虎落笛のようなただ甲高いだけの、やるせない音が喉の奥から漏れ出ただけだった。
 フレデリカは床に両膝をつけて、僕が「座る」のを辛抱強く待ってくれている。僕はうまく力の入らない「後ろ足」を何とか折り曲げてはみたものの、結局体重を支えられずに頭から倒れこむような形になってしまった。僕が態勢を崩し切る前にフレデリカがカバーに入ってくれたおかげで、僕は合法的に──じゃない、意図せずして彼女の膝を枕代わりにすることになる。残念なことに、今はその心地よさを堪能する余裕が皆無だ。
 壁際に放置してある姿見で改めて自分を見た。俄かには信じがたい現実が、反転して映し出されている。全身を暗灰色の毛に覆われた、四足歩行の獣──それが鏡に映し出された僕の容貌だった。
「そそそそそ、その狼は、ハイス、なのですか。悪魔ではなく」
「たぶん、そう」
「たぶん! たぶん!? 確証がおありなわけではないのですか!?」
 頓狂な声をあげるジョセフ。こいつの奇声はいつも以上にうるさく聞こえて全身に響く。ただ僕は自分の姿を、やたらに眼光の鋭い野犬くらいに認識していたので、ジョセフが開口一番迷いもなく"狼"だと称したのには驚いた。
「じゃあ、うん。ハイス。まちがいなく」
「フレデリカ様……。やはり危険ですから、とりあえず物理的に拘束すべきでは」
 そのいかれた意見には実は僕も賛成だ。視界に映る自分の手足に鋭利な爪が完備されているのを見るに、今の僕は常に危惧していた「フレデリカの喉元を掻き切る」という所業ができてしまうと思う。幸い今はそんな衝動はない。けれどそれが、この立っていられないほどの気分の悪さに抑制されているだけではない、という保証もない。だからできれば彼女から離れたいわけだけれど、立ち上がることがそもそも困難、というジレンマを抱えている。
「分かってもらえないと思うんだけど……ハイスが持っている空気、雰囲気みたいなものがあって、この狼はそれが変わらない。だから悪魔じゃない」
 フレデリカは飼っている犬でも撫でているような気安さで、僕の喉元をさすってくれる。妙に慣れた手つきだ。もしかしたら以前、犬を飼ったことがあるのかもしれない。お? それは、ちょっと、いやかなり? 気持ちがいいかもしれない。──じゃなくて! この期に及んで、身体的な快楽にあっさり身を委ねてしまう自分の愚かさに辟易してしまう。が、抗いがたい強制力がその「喉もとさすさす」にはあった。
 鏡の中には、うっとりした眼差しで、半開きの口から長い舌を垂らした随分とだらしのない姿の狼がいる。隅に押しやっているとはいえ魔道具や家財道具にあふれた部屋には、およそ似つかわしくない生物だ。それなりに気味が悪い光景だった。
 僕が一心不乱に姿見を凝視しているのに気づいて、フレデリカは優しい手つきで何度も頭を撫でてくれた。
「ジョセフ、床を片付けたいから少しの間だけハイスを見ていてもらえない? その後は私が代わる」
「いえ、片付けなら私が。夜が明けたらグリムロック殿に応援を要請しましょう」
「……それは必要ない。今回は、私たちだけで」
「しかし……」
「管理局側には今のハイスの状態は知られないほうがいい。あくまでも、まだ、という話。今までとは状況が違うのは確かだから」
 ジョセフは少しの間、逡巡した様子だったが、すぐに取り直して大きく頷いてみせた。そのまま階段下の物置から雑巾や手洗を引っ張り出してくると、僕が巻き散らかした吐瀉物の後始末をてきぱきとこなしてしまった。できればいつものように、文句を垂れ流しながら悪態をついてほしかったのだが、それすらない。湧き上がってくるものが胃液でなく、極上の申し訳なさに変わっていた。


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