月に吠える#7 Side A

 僕は一体、何になってしまったんだろう。はじめから何も持っていなかった。記憶がない、自分がない、大切なものがない、僕には自分を規定してくれる確かなものが何一つなかった。その代わりに、何体もの悪魔と、取り扱い注意のブラックドアの鍵を持たされている。要するに僕は、世界にとって不都合のものを詰め込むための、ごみ箱として存在し、機能していた。
 外側を取り繕うことはできた。だから一生懸命、ごみの上に仮初の現実を積み上げてきた。それを今になって徹底的に破壊してくるのは、なるほど物凄く悪魔的な所業だなと思う。
 フレデリカは、ぐしゃぐしゃのまま放置していたブランケットを手繰り寄せて、小さくまるまった僕の体にかけてくれた。一定間隔で僕の目元と頭を往復する手が、優しくて心地よい。僕はすべての感覚をその手に集中させることにした。
 思考を、感情を、一度完全に遮断してしまいたかった。
「何とかするから。今は少し眠って」
 僕は言われるままに目を閉じる。
 頭の中に際限なく広がる坩堝の世界で、フレデリカの声と手のひらの感覚だけが、形もないのに確かなものとして僕をつなぎとめてくれた。


 夜明け前に再び目を覚ました。寝入ったときと同じ態勢、同じ位置、つまりフレデリカの膝を枕にして数時間を過ごしていたようだ。
 フレデリカは魔法関連の分厚い書籍に視線を落としていたが、僕が身じろぎしたことに気づいて迷わず本を閉じた。その傍らには既に読み終わったのか、これから読むつもりなのか数冊の本が積み重ねられている。当然ながら夜中の騒ぎから後、彼女は一睡もしていないのだろう。
 地下室の入口付近には鼻提灯を膨らませて寝ているジョセフの姿もある。「フレデリカ様が起きていらっしゃるなら私も」とか何とか調子のよい宣言をしただろうことは想像に難くないが、結果この醜態である。フレデリカもある程度分かっていて許可したのだろうし、僕にジョセフの寝汚さを咎める権利があろうはずもない。醜態を晒しているのは、間違いなく僕のほうだ。
 ブランケットから這い出して、よたよたと立ち上がった。足が四本あるのだと脳に言い聞かせてイメージすれば、先刻よりはうまく身体の操作ができる。そのまま時間をかけて窓際まで移動した。寝る前には着ていたはずの僕の服が、まとめてそこに寄せられている。
 どう伝えようか考えながら、ひとまず下履きなんかを咥えてみた。
「……出たほうがいい?」
 意図は伝わっていたらしい、それが意外だった。
 フレデリカは立ち上がるついでに自分の膝やブランケットに絡まった狼の毛を手早くむしり取っていた。僕は頷く、という単純な肯定の仕草が難しかったので、服を咥えたままフレデリカを見つめる。それで理解してくれたのが、ありがたかった。フレデリカは入口のジョセフに一声かけて地下室を後にする。できればそのまま寝室に行って、少しでも寝てくれるといい。
 着ていた服をすべて移動させるより、多少重たくはあるがブランケット一枚を服の山のもとへ移動させるほうが都合がよいことに気づいた。察したジョセフが、服と僕をまとめてブランケットですっぽり覆ってくれる。
「窒息死するのでは?」
 通気性はあるからそんなことにはならない。頭を振るという単純否定の動作もやはり難しいから、ジョセフの危惧が見当違いであることを伝えるために鼻先だけブランケットから出しておくことにした。
「戻りそうなのか?」
 だから肯定も否定も難しいんだって──と苛立ってみたところで、結局それも表明できないから、僕は無反応でいることにした。
 全身がとてつもなくむず痒い。何かしらの変化が再び起ころうとしているのは間違いないと思う。立派な羽根を生やして大空に飛び立っていく可能性もなくはないけれど、ここは期待と願望を込めて「ハイス」に戻れる前提で行動している。
 つまりその、元に戻ったとして裸一貫、生まれたままの姿で皆さんおはようございます、という事態だけは絶対に避けたいのだ。今の状況の異常さは言わずもがなだが、それはごく一般的な羞恥心をかなぐり捨てるほどの段階にはまだ達していない。だからこうして、ブランケットの中にこもることにしたわけだ。
 かくして僕が準備した転ばぬ先の杖は、夜が明けきる前に見事に機能を果たしてくれた。
 次に目を覚ましたとき、僕が真っ先に確認したのは自分の両手だった。それが人間のものであることに胸をなでおろしたのも束の間、両足、胴、男としてはついていてもらなわいと困るものまで念入りにチェックした。顔面は撫でまわすより他、術がないから気が済むまでそうする。全身隈なく見回して、全てのパーツが元のハイスのものであることが確認できた。
 ブランケットの暗闇の中で、僕は体内に残されたすべての二酸化炭素を吐き出す勢いで、深く、長く、安堵の溜息をついた。
「起きたか」
 疲労困憊のジョセフの声に応答すべく、頭だけ外界に覗かせた。
「……なかなか芸術的な寝ぐせだな」
「それは……どうも」
 壁にもたれて力なく座っているジョセフは、当然のことながら素っ裸でそれを気に留める様子はない。蝶ネクタイだのエプロンだの、こだわりをもって着飾っているのは昼間に限ってのことだ。しかしながら人間はそうもいかない。昼も夜も何かは着ていないといけないし、自然のままについた寝ぐせでさえも人前では咎められる産物となる。
「フレデリカ様を呼んでくる」
「いいけど、また寝室に不法侵入する気じゃないだろうな」
「さっきまでふんともすんとも言えなかったくせに、戻ったとたん減らず口とはっ。フレデリカ様は隣の書庫で文献を調べておられる。このわけわからん状況では寝るに寝られないに決まっているだろうがボケカスがっ」
 工夫も何もないただの悪口を吐き捨てて、ジョセフはよろよろと地下封印部屋を出ていく。といっても本人が言う通り、廊下を挟んですぐそばの書庫の扉をノックするだけだから、数十秒とかからない。
 僕は散らばった服をかき集めて、大急ぎで袖を通した。
「ハイス……っ」
 フレデリカの表情も声も、心配と安心の間を行ったり来たりと忙しないのだが、僕は僕で、今回どういう反応が正解なのか決めきれずにいるから、曖昧で複雑で形容しがたい微妙な笑みを常駐させるしかなかった。
 それから僕らは重たい身体に鞭打って1階ダイニングまで上がると、会議を開いた。テーブルの上にはジョセフが淹れたお茶が三人分と、フレデリカが広げた魔術書が無造作に置かれている。
「呪い、ですか」
 真っ当な魔術師の多くは、その質の悪い、人を苦しめることに特化した類の魔法をそう呼んで区別する。明確な定義はないはずだが、一度かけてしまえば対象の魔力を糧に断続的に効力を発揮するものがほとんどだ。
「物質の性質や形を変えるのは、この世界の理に反することだから物質界由来の魔力では……つまり、人間の魔術師には難しい。十中八九、悪魔がかけた呪いだと思う」
 開いていたページには二百年前に実際起こったという、小さな集落の人間が一夜にして、一人残らず山羊に変貌していた事件が記録されていた。それはそれは衝撃的ではあるのだが、どうにも胡散臭い。
 僕は生返事をして、他のページをぱらぱらとめくってみた。写実的な挿絵とともに様々な実例が紹介されている。上半身だけ牡牛になってしまった男、髪の毛の一本一本が蛇になってしまった女、腕から羽根をはやした鳥人間に、僕に近いものでいえば狼人間(ただし二足歩行)というのも載っていた。ページをめくった瞬間、顔だけが人間の犬の挿絵が視界に飛び込んできたときは、我慢できずに笑ってしまった。
 フレデリカが心外そうに眉を顰めているので、咳払いで誤魔化す。ついでに本も閉じる。


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